内田樹さん(c)水野真澄
内田樹さん(c)水野真澄

 僕はどんな分野でも素人であるということを公言していますから、僕が予言したことが外れても、「お前の予言を信じて、えらい目に遭った」という人はいないはずなんです。東京オリンピックについても「途中で中止になる」という予言をしましたが、外れました。でも、僕の予言が外れたせいで実害をこうむった人はたぶん日本に一人もいないと思います。それよりは、「なぜ中止になる可能性のあったイベントが強行されたのか?」という問いが前景化されたとしたら、僕はそれでいいんです。

岩田:実際には、コロナについてすべてを専門的に理解できる人は存在しないので、「非専門家」の見解も大事だと思います。僕はコロナがもたらす医学的な影響についてはかなり正しく申し上げることができますが、コロナ禍による経済的な問題や文化的な影響には専門家としてはコメントできませんし、していません。するとすれば、「非専門家」としてのコメントとなるでしょう。

 専門家とは、専門領域のフレームが見えている人。要するに、「ここまではわかっている、この先はまだわからない」という境界線がちゃんと見えている人がプロなんです。「わかる」のが専門家ではない。むしろ「わからない」のが専門家。ややこしい言い方になりますが、わからない領域があるのをわかっているのが専門家であり、それを意識させ、気づかせてくれるのが非専門家なんです。

 例えば、「ワクチンが有効であるかどうか」「ワクチンは安全かどうか」については僕の専門領域で議論できます。そうではなく、「高齢の親が『絶対にワクチンを打ちたくない』と言っています。どうすればいいでしょうか」のような課題には、おいそれとは答えられない。価値観や倫理観が入り込む領域は、感染症学の守備領域ではないからです。ヴィトゲンシュタイン的に言えば、「語りうることと語りえないことの線引きをする」のが大事だといつも考えています。もし、「絶対に打ちたくない」と主張する人に、「あなたは間違っている。ワクチンは打たねばならない」と論破しようとする「専門家」がいたとしたら、それは自分の守備範囲の境界線をうまく理解できていない、「自称」専門家、感染症の知識をたくさん集めている「物知り」に過ぎないのだと思っています。そういう人は、多いですけどね。

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