チームの浮沈のカギを握る外国人選手は、活躍すれば翌年も契約が更新されるが、成績不振の場合はたった1年で解雇というパターンが、ほぼお約束だ。
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その一方で、そこそこ活躍したのに、諸々の事情から、わずか1年で日本を去った助っ人も少なからず存在する。
代表的なのが、1987年のボブ・ホーナー(ヤクルト)だ。
当時は珍しかったバリバリの現役メジャーとして4月末に来日すると、最初の4試合で11打数7安打6本塁打という驚異的な成績を残し、“ホーナー旋風”を巻き起こした。
最終的に出場93試合で打率.327、31本塁打、73打点を記録し、観客動員数アップにも大きく貢献したとあって、球団側も3年契約の総額15億円の条件で引き留めを図ったが、ホーナーは環境になじめない日本よりも本国でプレーすることを望み、年俸1億円でカージナルスと契約した。
だが、メジャー復帰後は左肩を痛めて60試合出場の3本塁打に終わり、たった1年で戦力外に。そこで翌89年、再びヤクルトに売り込んだが、“商品価値”の下落に加え、すでに外国人枠が埋まっていたため、断られてしまい、間もなく現役引退を発表した。
ヤクルトといえば、93年に入団したレックス・ハドラーも、打率3割をマークしながら、たった1年でクビになった。
勝負強い打撃が売りのハドラーは、同年5月19日の広島戦で16対16の延長14回にサヨナラ打を放つなど、一時はセ・リーグの首位打者争いにも名を連ね、“恐怖の8番打者”と呼ばれた。
また、雨で試合が中止になった日の余興としてミミズやアリを食べ、「グッド・テースト」「グッド・フレーバー」を連発。これらの悪食は、試合中止でネタに困った報道陣へのサービスという意味合いもあったようだ。
同年は打率.300、14本塁打、64打点を記録し、チームのV2に貢献したが、守備の不安や長打力不足がネックとなり、オフになっても、球団側は残留→解雇→残留→自由契約と二転三転し、なかなか結論を出せない。