はやぶさの成果論文は、2011年に米科学誌の「Science(サイエンス)」で特集され、うち2本の論文に本田もメンバーとして名を連ねた。天文学者に向かって、着実に歩みを進めているように見えた。
ところが、本田は博士課程への進学を断念する。決定打となったのは、図らずもはやぶさのプロジェクトで得た経験だった。
「名だたる研究者たちは、生活の全てを研究に捧げるほどの熱意や覚悟があった。しかし自分は『そこまで一つの研究に没頭できない』と思ってしまったんです。その頃は後ろ向きな気持ちでした」
大学院修了後は、地元の枚方市役所に入庁。環境総務課、保護課、広報課(課名は当時のもの)に配属され、計5年間市政に尽くした。
■社会と科学をつなぐ役割 震災をきっかけに痛感
一方で、科学に対する純粋な好奇心が消えることはなかった。環境総務課では、市の廃校で星空観察会をして環境保護の必要性を知るイベントを企画。また、環境省から燃料電池自動車を借りて、市内の小学校に出前授業をしたこともあった。
本田の新人研修を担当した枚方市役所職員の菊地武久は、当時をこう振り返る。
「研修で泊まった施設にある反射望遠鏡を使って、ほかの新入職員を天体観測に誘ったり、即興の天体講座を開いたりしていました。彼は、仕事中もいつも笑顔で丁寧にサポートしてくれましたよ」
また、広報課で本田の上司だった林訓之は、本田の「人をつなげる力」に感心したと話す。
「本田くんは、誰とでも気さくに話ができるので職場の人気者でしたね。庁内での関係課との調整も、持ち前の調整力でうまくこなしていました」
転機が訪れたのは、29歳のときだ。
東京の友人の結婚式に参加した折、空き時間にお台場の日本科学未来館を訪れた。帰宅後、同館のホームページを何気(なにげ)なく眺めていて見つけたのが、「科学コミュニケーター募集」の文字だった。
「初めは『科学コミュニケーターって何だ?』という感じでした。募集条件を見ると、『科学と社会をつなげる役割を担う人材。いろいろな社会経験があると尚良し』などと書かれている。その瞬間に、『これ、俺のことやん!』って思いました」
雇用期間は、最長5年。安定を考えれば、公務員の地位を捨てるのは無謀だ。だが、大学院時代のあのとき、研究の道に挑まず諦めた気持ちに区切りをつけたかった。こうして本田は、市役所の職を辞し、「単身武者修行に出るような感覚」で12年4月から日本科学未来館で働き始める。