1977(昭和52)年、木久扇(当時、木久蔵)さんが40 歳のころに撮影された団らん風景。中央手前が長女の佐久子さん(当時8歳)、左奥、木久扇さんの前に座っている長男の宏寿さん(当時1歳)が、今では「二代目林家木久蔵」を襲名している。(写真/朝日新聞社)
1977(昭和52)年、木久扇(当時、木久蔵)さんが40 歳のころに撮影された団らん風景。中央手前が長女の佐久子さん(当時8歳)、左奥、木久扇さんの前に座っている長男の宏寿さん(当時1歳)が、今では「二代目林家木久蔵」を襲名している。(写真/朝日新聞社)

■立川談志さんとの出会いが「笑点」出演のきっかけに

 そんな僕も、実は最初から落語家になりたかったわけではありません。子どもの頃は、絵や漫画を描くのが得意でしたし、チャンバラ映画も好きでした。高校のときは映画演劇部を自ら作ったり、役者になりたいと思ったこともありましたね。

 最初に勤めたのは、新宿の牛乳工場。初任給は5500円で、当時としては悪くなかったんですが、とにかく重労働。「もう辞めたいな」って思っていたときに、出版社で働く友人に再会しました。漫画家の清水崑さん(『かっぱ天国』などが有名な漫画家。酒造メーカー「黄桜」のマスコットキャラクターの初代のかっぱをデザインした)の画稿取りをしていて、清水さんの書生(アシスタント)になりたいなら紹介すると言われたんです。

 彼が『サザエさん』の作者の長谷川町子さんは、新聞の4コマ漫画で原稿料が3万円だっていうんです。僕の初任給が5500円で、かけそば1杯18円という時代。「長谷川町子さんを目指して頑張るぞ!」って盛り上がりましたね。

 清水先生の書生になって、4年ほどお手伝いをしていました。チャンバラ好きの僕は、月形龍之介とか片岡千恵蔵のモノマネをしながら漫画を描いていたら、清水先生は大笑い。

「お前は面白いやつだなー。落語やってみたらどうだい?」と言われ、三代目桂三木助師匠に紹介状を書いてくれました。実は落語のことはあまりよく知らなかったんですが、漫画も描けて落語もできたら楽しそうだなって、軽い気持ちでの入門でした。

 三木助師匠は、その後わずか5カ月で亡くなってしまい、八代目林家正蔵(彦六)門下になり、林家木久蔵の名前をいただきました。三木助師匠が亡くなったときに、漫画家に戻ることも頭をよぎりましたが、すでに人を笑わせる醍醐味を知ってしまいましたから、もう落語家は辞められませんでしたね。

 立川談志さんと会ったのは寄席の楽屋です。気難しい感じの人で、「こんな暑い日に客を笑わせなきゃいけないなんて変な商売だな」ってよくブツブツ言ってましたね(笑い)。ある時、楽屋で「風呂でも行くか」とつぶやいているのが聞こえて、僕は自分の石けんと手ぬぐい、ひげ剃りをサッと手渡したんです。そうしたら「お前さんは気が利くねー」って気に入られて、それが「笑点」に出るきっかけになりました。

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