目安箱を設けて集めた庶民の意見が反映されたのが、貧しい市民を対象にした小石川養生所だ。医学博士で東京通信大の植田美津恵教授は言う。
「小石川養生所は、幕府の医師や町医者が無料で診察や薬の処方をしました。また吉宗は薬園を開き、そこで採れた薬草を自ら調合し、家臣や庶民に与えたといいます。家康を崇拝していただけに『健康オタク』な面がありました。特徴的なのは、自分だけでなく庶民の健康にも目を向けた点です。今にも続く人気の理由でもあるでしょう」
吉宗が慕われていたことを示すエピソードが晩年にある。63歳の時に脳卒中にかかり、後遺症で不自由な体になると、家臣が介護やリハビリで懸命に支えたという。
「将軍になる前から仕えた家臣が書いた『吉宗公御一代記』によれば、吉宗が移動や食事をする時には、マヒした右手を支えて介添えしたり、毎日マッサージを欠かさなかったり、亡くなるまでの5年ほど、多くの家臣がつきっきりで献身的な介護やリハビリを続けました」(植田教授)
江戸時代に大きな戦乱がなくなり、社会も安定し始めると学問や文化が発展し、庶民も体や健康のことに目を向ける余裕が出てくる。健康本もたくさん作られ、“ベストセラー”もある。
有名なのが、筑前福岡藩の儒学者・本草学(博物学)者の貝原益軒が書いた『養生訓』だ。脳神経外科医で若林医院の若林利光院長は解説する。
「養生訓は、唐の時代に成立した中国の医学書を底本として、古今東西の健康法をまとめた集大成とも言える本。現代から見れば科学的に間違った点もありますが、なぜ養生に取り組むのかや、寿命や欲望の考え方など、今でも通じるものは多い。底本である中国の医学書の著者は102歳、貝原益軒も85歳まで長生きしましたから、長寿者が残した哲学書やエッセーとして捉えるとよいかもしれません」
益軒自身はもともと病弱だった。長生きできた理由として、若林院長は歯が丈夫だったことが大きいとみている。養生訓では83歳の時にも歯は一本も欠けておらず、視力も衰えていなかったことを明かしている。
「その年まで歯や視力が衰えなかったのは驚異的。歯周病や網膜症のリスクが高くなる糖尿病とも無縁だったと考えられます。歯や目の健康状態は、脳や体の機能の低下を抑えるうえでも重要です」(若林院長)