様々なボーイズグループが音楽チャートを賑(にぎ)わせている昨今だが、新たに生まれたダンスパフォーマンスグループに加入する人たちは、幼少時代からダンスをやっていた人がとても多い。でも、屋良さんが子供の頃は、習いごとにダンスを選ぶ子供はごく稀(まれ)だった。

「僕らがジャニーズに入った時期は、ストリート出身の振付師さんがいたりして、ジャニーズのダンスも少し変わってきた時期だったと思うんです。ラスベガスのショーで見られるような、華やかでキラキラしたダンスが主流だったのが、少しヒップホップ的な要素も入ってきていて、それに僕なんかは夢中になった。でも、Jr.全体で踊るのは、かわいらしい音楽に、キラキラした振り付けで。だから、嵐がデビューした頃っていうのは、『自分たちがやりたいのはここじゃないのにな』っていうズレを感じ始めた時期でもありました」

 自分なりの表現を極めたくてもがいているとき、ある日、振付師から、「自分たちで振り付けを考えてみたら?」と言われた。

「せっかくのチャンスだから、同じ系統のダンスが好きな仲間と、『アンダーグラウンドのパフォーマンスをやろうぜ!』って話して。カメラ目線で、キラキラを見せていくんじゃなくて、とにかくダンスのスキルを見せていきたかった。ちょっと反抗期もあったと思います(笑)。『先輩の曲は使いたくない』と言って、洋楽のアーティストの曲をカバーして、小道具とか自分で買いに行ったり。オリジナル曲を作らせてもらう機会があって、その馬鹿みたいにマニアックな曲に馬鹿みたいにマニアックな振り付けをつけたこともあります」

 プロデューサーであるジャニーさんが、それを気に入るわけがないこともわかっていた。ジャニーズが提供するのは、広く、いろんな人に届くエンターテインメントなんだということも。

「わかっているけど、どうしても折れるわけにはいかない。そんな葛藤を抱えていた僕らに、ジャニーさんは、あえてミュージカルをやらせようとしたんです。ある日、朝起きたら、母親から、『あんた、このグループに入ったの?』って確認されたことがあったんです。母親の持っているスポーツ新聞を見たら、『ジャニーズ、Musical Academy発足』みたいなことが書かれていて、そのメンバーに僕の名前もあった。今となっては“ジャニーズあるある”みたいなエピソードですが(笑)、当時は本当にビックリしました」

(菊地陽子 構成/長沢明)

週刊朝日  2022年7月29日号より抜粋

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