事件を機に、地位やお金、離婚で家族も失った内柴氏。精神的にも追い詰められ、うつになって薬を飲むこともあったという。刑務所での服役中は、紙に柔道に関する思いを書き連ねて過ごした。そうしないと、自分を保てなかったからだ。
「自分の柔道は終わったというのは分かっていたんですけど、当時の僕には柔道のほかに経験や知識がなかったので、新しいことを考えることもできず……。柔道のことを書きなぐること以外に、自分を保つ方法がなかった。吊り手の位置から、膝の使い方、腰の角度まで、技を全部分解してみたり、柔道で感じたことや身に付けたことを自問自答したりして、すべて文字に起こしてました。それでどうにかこうにかって感じです」
17年の出所後は、もう一度自分の人生を立て直すことに目を向けた。「健全な精神は肉体から宿る」の考えにのっとり、たとえ柔道ができなくても体を動かすことをしようと、「柔術」のジムに弟子入り。師範の家に住み込み、トレーニングに打ち込んだ。そこでキルギスの柔道連盟の関係者に出会った縁で、18年7月から19年12月まで、キルギス柔道連盟の総監督として指導。異国の教え子を率い、世界選手権に進出した。
「帰国後に、格闘技イベント『RIZIN』に誘ってもらったこともあったのですが、スポンサーから許可がおりないといった事情があって、思うように活動できなかった。そんな時、今勤めさせてもらっているお風呂屋さんの社長に、『地元に貢献できるお風呂屋さんで、一社会人として勝負しませんか』と声をかけていただいて。そのお風呂は自分が現役時代から使っていた場所で、愛着がありました。実家を離れて東京で長く暮らしてきたので、熊本で年老いた父と過ごす時間を大切にしたかったし、地元での暮らしも良いんじゃないかと」
現役時代は柔道ばかりで、前妻にはたくさん苦労をかけたという内柴氏。今は新たな妻と1歳の子供がいて、地元で家族と一緒にいる時間を大事に過ごすようになったという。ただ、40代にして“異業種中の異業種”ともいえる銭湯での社会人デビューは、苦労の連続だった。
「『いらっしゃいませ』と言う経験がなかったので、自分にできるのか不安でした。あとは、損得勘定も一から勉強して。一から学ぶのが大変だったんですけど、新しいことができるようになるのは楽しいですね」