人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、「ガールズケイリン」について。
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久しぶりに嬉しいことがあった。十周年を迎えたガールズケイリンの記念レースに招待されたのである。実はその誕生に、私は深くかかわっている。
二○○五年、六十九歳の時に、それまで運営委員として、意見を言っていたのが縁で、当時経産省の特殊法人であった日本自転車振興会の会長に私は就任した。そうした組織にはもっとも向いていないと思って何度も断ったが、女性が要職につく突破口になればと考えて三期六年間、七十四歳までつとめた。
その間、振興会の改革も含め自分自身が楽しく仕事をするため、着手したことが三つある。
一つがガールズケイリン。二番目がオリンピックなど国際大会の開ける二五○メートル板張りバンクの建設、そしてドームでのナイター開催である。
ある日、会長室に自らも自転車のアスリートであった橋本聖子さんがやって来た。女子の自転車のアスリートの走る場として、競輪場を使わせて欲しいと。男子の競輪は、自治体を主催者として行われてきたが、女子競輪は短期間で廃止。
それを、新しくファッショナブルにしてよみがえらせたいと秘かに私は考えていた。エキシビションの形で女子に走ってもらったら、思いがけず人気が出て、いっそガールズケイリンを作ってはと話が進んだ。
関係者からは反対の声も多かったが、自転車を一生の仕事にしたいと真剣に考えている女子アスリートを知るにつれ、二○一○年、正式に発表。各地の競輪場で走ることが可能になる。
国際レースと同様、7車立て(普通は9車)にして、カーボンのフレームやユニフォームも色とりどりで目を楽しませるものにした。
最初は心配したが、私が二○一一年にJKA(日本自転車振興会の後継団体)の任務を終えて十一年。ガールズケイリンはまわりの人々の努力と選手たちの熱意で見事に成長。希望者も増えた。