「征韓論之図」(国立国会図書館所蔵)。江藤新平は、新政府で文部大輔と左院副議長を歴任。その後、司法卿になると、司法権の独立や裁判所建設、民法編纂などの司法制度の整備にも尽力した
「征韓論之図」(国立国会図書館所蔵)。江藤新平は、新政府で文部大輔と左院副議長を歴任。その後、司法卿になると、司法権の独立や裁判所建設、民法編纂などの司法制度の整備にも尽力した
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 幕末から明治にかけ、維新を成し遂げた原動力となった功労者は数多く存在する。そんな功労者の中で歴史に名を残し、その功績が讃えられた10人にはどのような功績があるのか。週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 15』では、歴史作家・桐野作人氏に西郷隆盛、大久保利通、江藤新平、横井小楠、小松帯刀、岩倉具視、木戸孝允、広沢真臣、大村益次郎、そして筆者が独自に選んだ後藤象二郎の10人から、「決断力」と「行動力」を評価してもらった。

【写真】歴史作家・桐野作人氏が選んだ「維新の十傑」

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「決断力」の善し悪しは難しい。多分に運任せや偶然、結果オーライの面もあるからだ。

 しかし、それを意識するとしないとにかかわらず、時流に適していた、世論の支持を得たとか、最大限突き詰めて合理的な解を出したうえでの決断なら、「決断力」に優れていたといえるだろう。

 まず挙げられるのは、意外かもしれないが、土佐の後藤象二郎である。後藤は土佐藩の上士の出で、藩の参政だった吉田東洋の義理の甥である。東洋は家格制度の簡素化や藩の専売制を強化する国産仕法など安政の改革を推進したが、武市半平太率いる勤王党に暗殺された。

 後藤は東洋に取り立てられたし、親族でもあった。また、勤王党とは敵対関係にあり、実際、武市の切腹も強行した人物。しかし、土佐藩の改革と国政参画が不可欠だと知ると、勤王党の一員だった坂本龍馬と手を結び、慶応三年(1867)六月、薩土盟約の締結を決断した。この盟約は大政の全権は朝廷にあり、その下に議事院を設けて国政を担い、将軍は辞職すべきだとした。薩摩藩との連携によって、土佐藩の京都政局での地位上昇をもたらしただけでなく、大政奉還の前提となった。

 後藤たちは老公山内容堂を動かしたうえで、将軍慶喜に政権返上を要求した。紆余曲折はあったが、それは慶喜の決断もあって実現した。後藤の大局的判断は幕末政局へ維新に向けて大きく歩を進めさせたのである。

 後藤の決断と連動しているのが、小松帯刀の果断である。大政奉還は土佐藩が提案し、将軍慶喜が承諾するだけでは完結しなかった。政権の返上先である朝廷の了解=勅許が必要だったのである。

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