テーマに欠ける房総半島の象徴性の薄さが性に合っている
嶋田さんによると、房総半島には象徴的なものがあまりないという。
それを聞いて、公文健太郎さんの『光の地形』(平凡社)を思い出した。この写真集には八つの半島で写した作品が収められ、それぞれの半島には宗教、歴史などのテーマが設定されている。
しかし、そこには身近な房総半島は含まれていない。公文さんに理由をたずねると、「房総半島も撮りましたけれど、テーマまで行きつかなかった」と言う。
それとは逆に嶋田さんの場合、テーマに欠ける房総半島の象徴性の薄さが性に合っているという。
「景色に撮らされることが少ないんです。被写体というのは、自分の意識で立ち表すもので、それ次第ですべてのものが被写体になると思っています。象徴的なものがない房総半島で、自分の意識と深く向き合うことで、被写体が現れる」
そこで重要なのが自分の意識の変化に敏感になることだという。そのため、意図的に「撮影システムは固定」している。カメラはニコンF3、レンズは「50ミリF1.8、一本だけ」、フィルムはトライX。とてもシンプルだ。
「ぼくは、房総半島が撮りたくて写真をやっているんじゃないんです」
「人に見せると、『中判や大判カメラで撮影したように見える』と言われる」作品は、フィルムの現像からプリントまで、すべて自分の手で行っている。
作品づくりは「被写体に近いプロセスほど大切」だそうで、「現場で光をどうフィルムに露光して、それをどのくらいのコントラストで現像するか。そこまでで写真の8割くらいが決まってしまう。プリントでできることはごくわずか」と言う。
そのため、「手持ち撮影でも、シャッターを切るまでにけっこう時間がかかったりするんです。頭の中には『ここかな』という光とトーンがありますけど、その水準に達したら撮る、というわけではなくて、もう少し、それを越えてくるものをずっと待つ」。
自らが置かれた状況のなかで、何ができるのかを考えていく。そんな撮影手法が自分の体質に合っていて、そういう意味では、「房総半島で撮る」こともカメラやレンズと同様、「固定された」状況の一つという。
「ぼくは、房総半島が撮りたくて写真をやっているんじゃないんです。写真って、撮影からプリントまで、いろいろな流れがあって、『房総半島』はいうなれば、その閉ざされたシステムのうちの一つ。そういうことがしたいんです」