1970年に完成したヘーベルハウスの第1号棟(東京・蒲田の住宅展示場)
1970年に完成したヘーベルハウスの第1号棟(東京・蒲田の住宅展示場)
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 時代のニーズを的確に読み取り、技術大国日本を支えてきた旭化成。昨日まで世の中になかった商品やサービスを生み出し、人々の暮らしを豊かにするチャレンジは、これからも止まらない。

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「旭化成」という名前は、CM、陸上や柔道、そして住宅ブランド「ヘーベルハウス」などで誰もが聞いたことがあるだろう。何をやっている企業かと問われても、一言で答えることは難しそうだ。しかし、事業の内容を聞くと、あれも旭化成だったのか、こんなことまでやっているのかと驚きがある。

 旭化成の出発点は、レーヨン製造のために設立した旭絹織と、日本窒素肥料によるアンモニア合成工場の二つにある。日本窒素肥料の創業者でもある野口遵(したがう)は、1921年に欧州を視察した際、当時、最先端であったドイツの人造絹糸のレーヨンの製造技術と、イタリアのアンモニア合成技術を見聞きし、これらの技術をもとにした事業は必ず当たると確信した。

 野口の読みどおり、人造絹糸は絹の代替品として価格も安く大人気となる。作れば作るだけ売れ、生産が間に合わないこともあった。

 もう一つの技術であるアンモニア合成技術も成功し、その後、石油化学につながり、20世紀の工業発展の礎となった。

 野口が工場立地を選定した際のエピソードがある。

「野口が合成アンモニアの工場を建設するために宮崎の延岡を視察した際、町内の愛宕山からその地域を見渡し、ステッキでぐるっと大きな輪を描いて、これだけの土地がほしいと伝えたのです。同行した人たちは、そのスケールの大きさに驚いたそうです」

 広報部報道室の関塚太郎さんはそう話してくれた。戦前のことである。事業は長くBtoB(企業間で行われる取引)を主に展開してきた。旭化成の名が一般消費者にも知られるようになったきっかけの一つが、サランラップである。

 旭化成は、元々は米ダウ・ケミカル社が開発した「サラン」という素材を工業用の繊維として日本で事業展開していたが、思わぬ苦戦を強いられた。

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