
信長自身も弓の弦が切れたため槍に持ち替えさらに奮戦を続けたが、森乱以下三十人近い御側衆も戦死した。信長は肘を槍で刺されて抵抗の術を失うと、「女は苦しからず」と女中衆を避難させた上で火をかけさせ、奥御殿の奥深く、納戸の中に入り、自害して果てた。戦闘が終了したのは辰刻(午前8時頃)だったという。
この頃、異変に気付いた信忠が父・信長と合流しようとしていた。彼は父の毛利氏親征に従うべく妙覚寺に入っていたのだが、信長より多少はマシながら1500ほどの手回りの兵しか率いていない。
このため、寺を出た信忠は「本能寺はすでに攻め落とされ、焼失しました。必ずやここにも光秀勢が攻めて来るでしょう。少ない手勢でも守りやすい二条新御所に移り、立て籠もるしかございません」と勧められ、それに従うことにする。光秀は京の諸口にも兵を配置して自分を取り逃がさぬよう手配しているだろう。途中で討たれては無念の至りだ」との判断に立ったのだが(『当代記』)、実はこのとき明智軍にそこまでの余裕は無かった。
運命とはいえ、ここで信忠が脱出に賭けていれば、後の歴史は変わっただろう。信忠が二条新御所に移って「程なく」明智軍は本能寺から御所に攻め寄せた。
御所は信長が誠仁親王(正親町天皇の子で、信長は彼の子・邦慶親王を猶子としていた)のために献上した城館だったため、信忠は攻め寄せた光秀勢に交渉して誠仁親王一家を内裏へ脱出させたいと申し入れる。辰刻(辰の下刻=午前9時過ぎか)、一家が徒歩で御所を出ると、光秀は改めて攻撃開始の命令を発した。
信忠は大手門のみを開かせ、兵を突出させて光秀勢に損害を与えた。一方面だけに敵を引き付けて味方の戦力を集中し、効果的に戦うためで、『惟任退治記』には、まず矢・銃弾を光秀勢に浴びせ、退くところに突撃をかけ数刻防戦したとある。これによって光秀勢は3度まで撃退された(『蓮成院記録』)。
だが、光秀は二条新御所に隣接する関白・近衛前久の屋敷の屋根に兵を登らせ、御所を見下ろしながら弓・鉄砲で攻撃させたため、信忠方の抵抗は徐々に弱まっていった。明智軍が御所への侵入に成功すると、最期を悟った信忠は切腹して果てた。彼の遺骸もまた、父・信長同様炎の中に消える。こうして午刻(正午頃。『当代記』)には軍事クーデターが完了したのだった。
(監修・文/橋場日月)
※週刊朝日ムック『歴史道Vol.7』より