雑踏の中にひっそり存在する「飯田橋」西詰の橋銘板(撮影/諸河久:2019年6月11日)
雑踏の中にひっそり存在する「飯田橋」西詰の橋銘板(撮影/諸河久:2019年6月11日)

 1968年に入ると、全共闘世代の学生運動が過激になり「都電廃止反対」のスローガンを掲げて、都電を占拠する行動に及ぶこととなった。15・39系統を担当する早稲田車庫は、このような社会情勢に配慮して、両系統の運転最終日にお別れ装飾電車の運転やセレモニーを断念することとなった。

 写真は15系統運転最終日の飯田橋交差点だ。飯田濠に架かる飯田橋を渡って高田馬場駅前に向かう15系統の都電が13系統の軌道と平面交差するシーンを狙った。前述の理由で装飾電車は運転されなかったので、惜別に訪れる沿線住人や最後のシーンを狙うカメラマンはまばらだった。カメラを構えていても、最終運転日という意識を忘れるほど、高揚感に乏しい撮影となった。

 都電の背景に写っている横断歩道橋は1968年3月に設置されている。当時、総延長242mに及ぶ長大な歩道橋で、上野駅前や渋谷駅前の歩道橋と長さを競っていた。街の景観を阻害する歩道橋だが、撮影者にとっては都電撮影の格好の足場となった。筆者も歩道橋に上る階段の途中から、やや俯瞰した構図で都電を撮影することができた。

 15系統に充当された2500型は杉並線の木造車を鋼体化したもの。1958年に芝浦の交通局工場の製造で、車体にはバスの軽量構造が採用された。1963年12月に杉並線廃止後、改軌改造されて荒川車庫に再配置された。その後早稲田車庫に転属し、都心の日本橋にも姿を現した。15系統廃止時の1968年に僅か10年の車齢で廃車された。

飯田橋交差点南西側から撮影した飯田橋停留所に停車する3系統品川駅前行きの都電。外濠通りは道幅が狭く、頻繁に渋滞が発生した。都電の後に老舗酒問屋「升本総本店」の土蔵が見える(撮影/諸河久:1965年9月12日)
飯田橋交差点南西側から撮影した飯田橋停留所に停車する3系統品川駅前行きの都電。外濠通りは道幅が狭く、頻繁に渋滞が発生した。都電の後に老舗酒問屋「升本総本店」の土蔵が見える(撮影/諸河久:1965年9月12日)

■水運で栄えた神楽河岸(かぐらがし)の街並み 

 別カットは飯田橋交差点の南西側から外濠通りを撮影した一コマで、飯田橋停留所で品川駅前に折り返しを待つ3系統の都電にシャッターを切った。3系統は700型の独壇場だったが、1965年秋頃から旧杉並線用の2000型に置換えられていった。

 その別カット右側の「クララ劇場」や左方向の牛込見付にある「佳作座」が「特選洋画を大衆料金で」のフレーズによる100円均一映画館として、近隣の法政大学、理科大学の学生さんに親しまれていた。撮影時にはホラー映画「妖女ゴーゴン」(イギリス映画/1965年7月公開)が上映中だった。

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