アフリカで現地の人々と過ごした学生時代の写真。40年に及ぶ研究で、ゴリラの群れの新生や、メスの子連れ移籍、チンパンジーとの共存様式の発見など、数々の重要な成果を上げてきた(撮影/楠本涼)
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アフリカで現地の人々と過ごした学生時代の写真。40年に及ぶ研究で、ゴリラの群れの新生や、メスの子連れ移籍、チンパンジーとの共存様式の発見など、数々の重要な成果を上げてきた(撮影/楠本涼)

「人間の場合も、お母さんと赤ちゃんや恋人同士など、言葉がいらない関係性の2人は顔を密着させる。つまり顔の覗き込みは、言葉以前の古いコミュニケーションだと考えられる。政治交渉で首脳同士が直接対話するのも、顔を合わせなければ相手の本心を理解し、信頼関係が結べないからです」

 山極は80年代前半に、フォッシーとともにマウンテンゴリラの研究に従事した。だが85年、衝撃的なニュースがもたらされる。フォッシーが何者かに小屋で襲われ、惨殺されたのだ。ゴリラの保護に尽力した彼女の生涯は、後に「愛は霧のかなたに」という映画にもなったが、犯人はいまだにわかっていない。山極はフォッシーの死から二つのことを学んだという。

「一つは、密猟者のような人すら含めた現地の人々と良い関係を築くこと。もうひとつは、地元の研究者を育てることです。フォッシーはゴリラを愛するあまり、金もうけのためにゴリラを利用する人々と対立して、恨みを買っている節があった」

 アフリカのガボンで5年以上にわたり、研究スタッフとしてゴリラの人付けを行った安藤智恵子(50)は、山極と現地民との信頼に助けられたことがある。

「雇っていた運転手が、酔って飛び出してきた老人をひいてしまい、亡くなるという事件がありました。そのとき山極さんは日本にいたのですが、電話をすると『自分で判断して動くな。とにかく村の人々の意見を聞け』とアドバイスされ、何とか解決することができました。大臣も農民も分け隔てなく、誰に対しても同じ態度で接する山極さんに、村人も絶大な信頼を寄せていたんです」

 山極と屋久島やアフリカでフィールドワークを共にした京都大学霊長類研究所所長の湯本貴和(60)も、「人としてのつきあい方を、山極さんから学んだ」と語る。フィールドワークを行う上では、ジャングルを知悉(ちしつ)する地元民の協力が必須となる。山極は道案内役を頼む狩猟採集民の人々とも膝を突き合わせ、ときおり酒を酌み交わし、研究以前に人間関係を構築することを重視した。山極は総長選挙の後、対立候補だった教授たちを皆理事に迎え、大学経営の中核メンバーとしたが、それも山極流の「敵をも味方にするやり方だ」と湯本は言う。

 大阪大学総長、京都市立芸術大学学長を歴任した鷲田清一(69)は、山極と25年以上の親交を重ねる学究の同志だ。鷲田は95年頃から、人々の暮らしの中で哲学を再構築する「臨床哲学」の試みを始めたことで知られる。

「霊長類学と哲学と学問領域が違っても、ともに研究室にこもらず外に出てフィールドワークを行う点が山極さんと一緒だった。彼と知り合ってから、自分が主宰する学際的な研究会にはほとんど加わってもらいました」

 ある研究会で屋久島に合宿したときには、こんなことがあった。

「山道を歩いていたら、道路に女性が乗る車が止まってた。見るとサルが何頭もへばりついて、食べ物を欲しがって騒いでる。そしたら山極さんが黙って車に近づいて、恐ろしい声で『ウォーッ』と叫んだ。サルは跳び上がって逃げていった」

●世界に飛び出して武者修行をしてこい

 そんな山極について鷲田は「いざとなれば体を張る、頼まれたら断らん人」と評する。「山極さんのような人はすぐにタコツボに閉じこもるアカデミズムの世界には少ない。だから彼に大切な仕事が任されるんでしょう」

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