山極は子どもの頃に児童文学の「ドリトル先生」シリーズを読み、「動物と会話できたらいいな」と思ったという。「僕は今、ゴリラと言葉ではなくしぐさや表情で話せるようになりました」(撮影/楠本涼)
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山極は子どもの頃に児童文学の「ドリトル先生」シリーズを読み、「動物と会話できたらいいな」と思ったという。「僕は今、ゴリラと言葉ではなくしぐさや表情で話せるようになりました」(撮影/楠本涼)

 ゴリラにとってドラミングは、相手を脅かす意味はない。子どもが足を踏み鳴らすように、「俺はお前と同じなんだ」と主張し、自分を表現する行動なのだと山極は解説する。

「ゴリラは目立ちたがり屋の遊び好きで、大人になっても笑う。サルはすぐに勝ち負けを決めるけれど、ゴリラはケンカしても勝敗を決めない。大人のゴリラ同士のケンカに、子どもが割って入って『やめなよ』って止めることもよくあるんだ」

 映像や写真を見せながらゴリラの生態を易しく語る山極の話に、子どもたちは目を輝かせる。山極は分刻みの総長職を務めながらも、子どもにゴリラを語る機会はできる限り持つ。それは「ゴリラの『相手と対等の生き方』を知ってほしい」と願っているからだ。

「会社や軍隊のような組織では上下、優劣をはっきりさせる。しかし家族や友人は互いに対等の関係でなければうまくいかない。ゴリラから人間はどのように生きるべきかを学べるんです」

 山極がゴリラの研究を志したのは、「人間の家族に一番近い集団生活を行っている動物」であることが理由だ。野生のゴリラの社会にフィールドワークで入り込み、長時間彼らを観察することで、人間だけに見られる「家族」の起源を解き明かすのが究極の目標である。家族や社会の形が急激に変化を続ける現在、ゴリラから「人間の本来あるべき姿」を探る山極の研究は、ますますその価値を増している。17年からは国立大学協会と日本学術会議の会長も兼務し、文字通りこの国の学問のリーダーとなったが、その人生の軌跡は、まさに「探検家」と呼ぶにふさわしいものだった。

 山極は1952年東京に生まれ、国立市で3歳から18歳まで過ごした。

「その頃の東京にはまだ自然が残っていて、自宅周辺には水田や畑が広がっていました。近くの森でターザンごっこや忍者ごっこをして遊んでいた」

 運動が得意で、体育の成績は常に5。文学少女だった母が家に内外の名作全集を揃えており、自然に本にも親しんだ。『ロビンソン・クルーソー』や『十五少年漂流記』などを読み探検家に憧れを抱いたのは小学生時代だ。中学ではバスケ部に所属しながら演劇に関心を持ち、文化祭で脚本と演出を務めた。高校でもバスケ部に入部したが、2年生のときに体育祭の練習で足の骨を折り、半年ほどギプスをはめて暮らした。

「運動ができなくなって暇になり、勉強に関心が向きました。ちょうど高校紛争が始まり、授業のほとんどがボイコットでなくなった。それで予備校にも行かず教科書と参考書で勉強したら、模試の成績がぐんぐん上がった」

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 京都大学を受験したのは「東京を離れたい」と思ったのが理由だ。学生運動に感化された同級生の間では「サルトルによれば」などと衒学的な議論がよく交わされていた。山極はそうした実体験に基づかない、聞きかじりの論理が性に合わず、大学は新天地で過ごそうと決めた。

 京大に入学した山極は、山登りが好きだったことからスキー部に入部。ノルディック競技にはまり、関西の大会で4位に入賞するほど腕を磨いた。このスキーが、山極を霊長類研究へと導く。

「志賀高原で練習をしていたら、双眼鏡で雪原のサルを眺める人がいた。何をしているか尋ねると『人類学の研究だ』と言う。『人間だけを見ていても人間はわからない。サルと比較することで人間が定義できるんだ』と聞いて、これは面白そうだなと思った」

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