「大人たちの顔を立てて、相手には会う。でも私は海外に出たいという目標があるから」。そう宣言し、母が父を「せっかく英語を勉強したんだから行かせてやってください」と説得してくれ、1年だけという約束で許してもらった。
「伊丹空港から香港に旅立つ時、『I’m free』って思った。私はもう帰らないだろうなって」
その予感通り、日本に戻ることはなかった。パンナムの手続きに時間がかかったため、1年キャセイに勤めてから移る。
「ファーストクラスも担当して。何も知らなかったから、お給料もらってフィニッシングスクールに通わせてもらったようなものよね」
フランス料理のマナーにアペリティフのカクテル、ワインの種類、接遇の仕方──。「お茶漬けに赤玉ポートワイン」の世界だった彼女にとって、すべてが初めて知ることばかり。
「高級ワインがあまると、これお肌に良いのよ、って赤ワインで手を洗ったりしてた」
パンナムに移り、ハワイに拠点を置く。東京発で、2週間かけて世界を回る路線に乗った。東京を出て香港、バンコク、ニューデリー、テヘラン、ベイルート、イスタンブール、フランクフルト、ロンドン、ロサンゼルス、ホノルルを経て東京へ。高度経済成長で日本のビジネスマンが世界を駆け回っていたから、日本人乗務員が必要だった。他の乗務員はそれぞれの地域で交代するが、日本人乗務員1人は世界を一周した。文字どおり、日本の成長と共に世界に羽ばたき、グローバルな感覚を身につけた。
ベトナム戦争最末期の75年、旧サイゴン陥落直前に孤児たちを米サンフランシスコに連れていくために米軍にチャーターされた飛行機に横田基地から乗ったこともある。
「赤ちゃんを箱に入れてシートベルトをかけて。あの子たち、どうしているんだろう」
楽しく充実した仕事の日々のなかで、パンナムの上司に見初められて結婚。息子を出産して2年後に子どもと寄り添いたいと退職する。夫は順調に出世し、何不自由ない暮らしだったが、それが不満の元になる。
「私、飽きちゃって。人間ってわがままよね。優しくしてもらって退屈になったの。そんなこと言ってはいけないと思うけど。彼は良い人で、バーガーの食べ方からいろんなことを教えてもらったけど、この人ともういられないって思ったの」
40歳を前に離婚を切り出し、息子を連れて別れた。
「このまま私、年をとっていくの?っていう、もがきがあったと思う。舞台で主演してみたい、って思ったのかもしれない。私、あのまま別れないでいたら、ぶくぶく太って文句ばっかり言っているおばさんになったと思う」
夫と住んだ家を売却し、その半額ももらったし、心配した父が送金してくれたから当面の生活には困らなかったが、離婚した途端に現実がのしかかる。父は「日本に戻ってこい」と言ったが、その気はなかった。「あの頃の言い方でいえば、混血の子どもを抱えて。ハワイが長かったし、ここならなんとかやっていける、という根拠のない自信があった」。100カ国以上訪れたなかで「人間が生まれた姿に近いままで一年を過ごせるなんて、こんなにいいところはない」というハワイの風土も好きだった。
シャネルのブティックの販売員となり、バブル景気とも重なって日本人顧客に売りまくる。
「私、もの売るのが好きなんだ」と、自分の意外な才能に気づく。しかし、息子の送り迎えもしたかったし、もっと自由な職業がいいと不動産の猛勉強を始める。シャネル時代の同僚で親友の照子・ルーイン(73)は言う。