人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子さんの連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、「團十郎の襲名披露」について。
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市川團十郎の襲名を見てきた。「市川海老蔵改め十三代目市川團十郎白猿襲名披露」が正式名称である。十二月の夜の部は口上と、團十郎娘、助六由縁江戸桜である。
この襲名に関しては松竹側と團十郎側の確執が伝えられ、團十郎一家の自主公演などが問題になったが、まずは無事襲名が終わってほっとした。
歌舞伎という伝統芸能は演出家がいないために、先輩役者から教えられる部分が多い。若者としては反発や、これは違うという思いもあって、なかなかうまくいかないものだが、批判や反発があってこそ若者らしいともいえる。
特にやんちゃな團十郎だけに、それが表沙汰になって波風が立つ場面もあった。
歌舞伎は伝統芸とはいえ、今に演じられるからには今の息吹が込められるのは当然で、これまでもそうやって「今」と「昔」とのせめぎあいの中から新しいものを生み出してきた。
襲名の口上にはそれがよく表れる。先代勘三郎や今の仁左衛門の襲名の時は、少しだけプライベートや内輪を明かすことで笑いを誘っていた。
今回はそれが少なかったし、あまり変化に富まない言いまわしに終わった感がある。玉三郎の言葉がなかったのも残念だった。
それでも久々の大入り満員。襲名にふさわしい着物姿やきれいどころの姿が客席にあるのも久々で、花を添えていた。かけ声も時々かかった。やはり客席も一体になってこその舞台である。
伝統芸能とはいえ、スマホの普及で、最近はすぐにプライベートの生活などが明かされてしまうため、役者もうかうか遊んではいられない。
しかし何でもかんでも明らかにされては、舞台の神秘性がそがれてしまう。役者の私生活はどうあれ、それが表沙汰になってしまっては、舞台を見る楽しみが失われる。
團十郎一家のプライバシーも必要以上に表沙汰になってしまった感があるし、舞台には“秘すれば花”が必要である。