いったん嘘をつくと、個人でも法人でも「人」は引き返すのが難しくなる。「信用」は失うと取り戻すことがむずかしいことは誰もが知っているからだ。にもかかわらず、人は、なんとかなると自らに言い聞かせ、その場を糊塗し、問題を先送りし、ついには万事休す、となる。

 近年、1990年をピークとするバブルとその崩壊の顛末を描いた物語が盛んだが、その後も大企業の不祥事や衰退は後を絶たない。直近でもソニー、シャープ、三菱自動車、そして東芝などに共通するのは、経営者の経営能力と精神の崩壊である。

 企業には、リーダー(経営者)は健全だが、従業員が腐敗している、という事例はない。上層部の腐敗と頽廃が、全体を麻痺させるのである。

 本書は日本を代表する名門企業であり、巨大な総合電機メーカーが、巨額損失を累積し、粉飾決算を続け、その上、大きな闇を抱えた米国の原発企業買収という大失敗を積み重ねて崩壊するプロセスを描いた小説だが、モデル企業の名をあえて記す必要はあるまい。
 江上剛の小説やエッセイを評者は何冊も読んだが、本書が傑出しているのは、取材の綿密さとリアリティである。「神は細部に宿る」というが、本書の面白さは、登場人物たちの節々の会話や、期末決算のつじつま合わせ、あるいはごまかし方の仕組みなどの描写にあらわれている。経済学のテキストなどを読んでも絶対にわからない「事実」がここにはある。

 例えば、メーカーが製品を製造委託する際、供給する部品に価格を上乗せすると、一瞬はそこに「黒字」が生じる。しかし下請けから完成品を受け取る際には、その「黒字」は完成品価格に乗せられる。つまり期末決算ごとにそれを繰り返し、かつ前期よりも「黒字幅」を拡大させてゆけば、雪だるま式に粉飾がふくれる。しかも企業が見せかけでも黒字決算をしていれば、赤字ならば支払う必要のない配当や課税、そして賃上げの義務も生じる。黒い雪だるまはどんどん大きくなる。本書を読んでいると、粉飾というものの恐ろしさがよくわかるのである。

 あるいは本書に登場する人物像を点検してみよう。宮仕えをしている読者ならば、たちどころに「いるいる、こういう人物はいる。我が社の誰それがモデルではないか」と連想しながら相槌を打つだろう。責任転嫁、怒鳴り声となで声。いかなる角度から見ても尊敬できないふるまい、など「偉い人のうさん臭さ」が満杯である。

 仕事を通して、途上国の発展に寄与したいとの夢をもった、主人公・瀬川大輔の努力と絶望。あるいは実力のある会長に嘱望され、震えるような興奮と熱い思いをいったんは得た北村厚らの、権力者の実像にふれたことによる絶望などに関する節々の会話は、リアリティにあふれている。それはバブル期に最も腐食にまみれた銀行という現場を生きてきた著者ならではの臨場感である。

 もちろん「小説」はフィクションだ。しかしフィクションは細部の徹底した事実・真実と想像力によって支えられる。リアリティとはそういうことだ。

 本書でいえば、ミャンマーの寺における老婆のくつろいだ祈り方への主人公の共感。あるいはその主人公たちの職場の仲間たちとの交流は読者に心当たりのある「本物」だ。たしかに寿司屋や小料理屋での仲間たちとの語らいは、ビジネスパーソンの欠かせないオアシスである。

 私事で恐縮だが、評者は以前、九段下に仕事場を構えていたが、そこから歩いて五分ほどのところに、本書に登場する「鶴八」は実在する。その日のネタ。主人の握り方。客の飲み方……。著者の描写は実に見事である。きっと本書で描かれる西麻布などの他の店も実在するだろう。「神は細部に宿る」とはこのことである。大きな部分はフィクションでも、細部に徹底したリアリティがないと小説はつまらない。追体験ができないからだ。
 評者は本書のモデルとなった総合電機メーカーの取締役と直接、酒を酌み交わしたことがあるが、2014年、15年ころの表情の悪さはただごとではなかった。

 著者は本書のメーカー「芝河電機」の社員たちの会社への誇りと愛を随所で語っており、その意思は企業の再生への祈りでもある。働く人々は、自らの会社と仕事への愛着なくして懸命にはなれないものだ。

 ただ、評者は本書の全体の筋書きをあえて紹介しない。それは野暮だからだ。また登場人物たちの緊迫した会社内でのやりとりは、前後の文脈の中でこそ生きるからである。

 ページをめくることがもどかしい思いで読むことが小説の醍醐味だが、読者は本書を一気呵成に読むだろう。