ある大手書店チェーンのランキングリストを眺めていたら、サマセット・モームの『英国諜報員アシェンデン』を発見! 『月と六ペンス』などで知られる作家がこの作品を発表したのは1928年。しかも既訳がいくつもあるのに、なぜいま注目を?
理由のひとつは金原瑞人による新訳であり、新潮文庫の「Star Classics 名作新訳コレクション」の一冊だからだろう。もうひとつは「諜報員」という3文字かもしれない。「特定秘密保護法」「戦争法」に「共謀罪」と、世の中はきな臭くなるばかり。第1次世界大戦とロシア革命のさなか、中立国スイスを拠点に諜報活動をする男を描いたこの短編連作が、現代日本に通じると感じる人も多いのではないか。
モームはこの時代、主人公と同じくスパイとして活動した。といっても、「007」や「ミッション:インポッシブル」のような派手なアクションはないし、高度な頭脳戦があるわけでもない。当時の国際関係についての情報がたっぷり詰まっているわけでもない。スパイの日常は地味で退屈で、彼の目に見えるのは歴史の細部だけ。その意味でリアルな小説である。
この連作短編の魅力は人物描写にある。密告者かもしれない男爵夫人、メキシコから来た香水のニオイのきつい工作員、反英国活動をするインド人の愛人である踊り子。ドイツの二重スパイである男でさえも。個人としては魅力的な人間たちが、国家の道具として動かされる。監視したり、騙したりする。それが何のためのものなのか、よく知らないまま。スパイ譚は滑稽で、国家はいつも非情だ。
※週刊朝日 2017年8月4日号