見せるか隠すか。隠すとしたら何で隠すか。木下直之『せいきの大問題』の副題は「新股間若衆」。『股間若衆』(2012年)の続編で、股間若衆とはありていにいえば男性裸体像のことである。

 そういえばウチの町にもあったな、と思い当たりません? 私の出身高校の前庭にも立ってましたね。「青陵健児の像」の名で。

 股間若衆に注がれた著者の愛情は尋常ではない。なにしろ彼はそれを求めて全国に巡礼の旅に出ちゃったりするのである。

 たとえば長崎。ここの股間若衆では平和祈念像が名高いが、〈同じ平和公園の中には全裸で乱舞する男女七人の像もある〉そうで、〈さすがにこれは、われら人間には真似できない。おそらく地球上では物理的にも体力的にも、そして倫理的にも無理だろう〉

「北限の裸のサル」は旭川市役所と向き合っており、市民代表のよう。札幌・大通公園の股間若衆はパンツをはいているが、なぜか頭にタオルも被っている。前橋の股間若衆は男女一対で、男はハンマーを握りしめている。松本には全裸で笛を吹く少年がいて児童ポルノ法に抵触しないか心配になるし、広島では地下街から階段を上がったところにぬっと現れる。

 股間の問題は美術史の上でも常に論争の的になってきた。古代ギリシャやローマ美術に理想の美を見出したルネサンス芸術家は数々の全裸の聖画を描いたが、ミケランジェロの「最後の審判」には教皇側からクレームがつき、ミケランジェロの死後、何人かの股間に布が描き加えられた。マザッチオの「楽園追放」はアダムとイブの股間に葉っぱが加筆された。明治以降は日本でも警察が目を光らせ、黒田清輝の裸婦像は腰から下に布を巻いて公開された。

 男性像の布切れやパンツの中身をどう表現するかに彫刻家は心を砕いてきたという。〈むき出しはいけない。遠回しに遠回しに表現する。そうせざるをえない歴史を彫刻家は歩んできたからだ〉

 出しても隠しても問題になる股間。しかし街中の男性像が妙にマヌケに見えるのはなぜですかね。

週刊朝日  2017年7月28日号