『史記』趙世家には「龐煖(ほうけん)、趙楚魏燕之鋭師、秦の蕞(さい)を攻むるも、抜かず。移して斉を攻め、饒安(じょうあん)を取る」という記述がある。
蕞の地は、のちの驪山(りざん)の北麓の始皇帝陵に隣接して置かれた陵邑(陵墓を守る都市)の都市・麗邑の地であった。
蕞の原義は「草の集まるさま」であり、まさに驪山北麓の原野の集落であった。龐煖の鋭師がたんなる一集落を狙い撃ちにすることはありえない。おそらく秦王の陵墓の予定地になる情報を得ていたのであろう。合従軍は秦王の陵墓の候補地を攻めたことになる。
龐煖の率いた鋭師とは精鋭部隊を指すが、四つの国(衛は入っていない)の軍隊を褒めたことばではなく、たんに機動力のある別働隊を指している。蕞の地と寿陵は近く、鋭師と五国軍の本隊とが連携した行動をとり、秦の重要な地を襲撃したのであろう。
本隊が寿陵にあったからこそ、そこから鋭師が別働隊として蕞に向かったのだと考えられる。秦にとって見れば深刻な事態であった。しかし戦争の記録は、できるだけ自国の被害は過小に記録する傾向がある。
始皇六年の合従軍の侵入は、秦側の記録では軽微に扱われ、簡単に撃退したことになっているが、場所が場所だけに、当時一九歳だった秦王のトラウマになり、その後の行動に大きな影響を与えたことだろう。
三九歳で天下を統一したときの秦王は、次のように当時を振り返っている。「魏王は始めは約して服して秦に入るも、韓、趙と合従して秦を攻めたことが秦との約束(連衡)に対する背信行動である」という。二〇年も前のことを持ち出したことからも、その傷の深さがうかがえる。
《朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』(鶴間和幸 著)では、李信、騰(とう)、羌瘣(きょうかい)、桓齮(かんき)、楊端和(ようたんわ)ら名将軍たちの、史実における活躍を詳述している》
