
大きな流れは初めて作ったときと変わりません。
叩いたむね肉に塩コショウをして、乾燥バジルとニンニクをよく揉み込んで、オリーブオイルを引いたフライパンでじっくりと火を通す。そろそろ全体に火が通りそうだなというタイミングでバターを入れて、溶けたところをまわしかけながら焼き、レモン汁をかけて完成です。
この通りにすると、みんなが「こんなの食べたことない」と驚くくらい柔らかく仕上がります。
でも実は、俺も料理を始めたばかりのころは、何回かに1回は火を通しすぎてパサパサになってしまっていました。いきなりうまくいくわけないですからね。
それでも本当の初回は、今見ても合格点をあげられるくらいに外は香ばしく、中はしっとりと焼きあがりました。
「引きこもりの自分でも、人の役に立てるんだ」
母親に「これ作ってみたんだけど」と言って、テーブルに出してみました。誰かのために料理をしたことなんてないし、今みたいに動画もそんなに充実していない時代です。ブログに書いてあった通りに作ってみたけれど、まったく自信がない。
喜んでくれたらいいなあという思いはありましたが、うまくいったかはわかりません。最初の一口を食べてもらうまで、緊張していました。
母親がゆっくり一口目を口に運びます。飲み込むまでは1分にも満たなかったと思いますが、しっかり味わってくれました。感想を待ちます。
すると、母親はにっこり笑って「すごくおいしい」とほめてくれた上に、めちゃくちゃ喜んでくれたんです。
一口、また一口と口に運び、お皿に盛りつけた分をあっという間に食べ終えました。もちろん感想も嬉しかったけど、俺が一番嬉しかったのは、目の前のお皿がきれいになったことでした。
それまでの人生のなかでも、とんでもなく嬉しい出来事の一つです。
引きこもりの自分でも、料理を作ることで人の役に立てるんだ。そう思った瞬間でした。
そしてそれは、「おいしい」「うまい」という言葉の持つ強さが初めてわかった瞬間でもありました。
もし母親がなんの反応もしてくれなかったら、俺は料理を続けなかったかもしれない。でも、母親はおいしいと言ってくれて、俺は嬉しいと感じた。
ここに家庭料理のすべてがあります。誰かのことを思って作って、ちゃんと反応が返ってくる。一人暮らしなら、自分が自分に反応してあげればいい。反応がなければただ寂しいだけです。
自分がうまいと思う。一緒に住んでいる人がおいしいと言ってくれる。友達がうまいと言ってくれる。
人はそこで初めて、食事を作り続けようと思えるのです。
(リュウジ・著『孤独の台所』から一部を抜粋)
