
いわゆる「パンダ外交」が始まったのは1941年。1930年代のパンダとは、なんと「雑食熊」「クマにしては白いやつ」という扱いだったのだ――。中国はいかにしてパンダのかわいらしさを発見したのか。
【写真】中国から初来日したパンダ、ランランとカンカン【1972年】
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「クマにしては白いやつ」
1930年代半ばごろまでの中国では、明らかにパンダへさほど関心が寄せられていなかった形跡が残っている。30年代に書かれた中国の生物学関連の本をめくってみると、パンダのことは「白熊」だとか、「雑色熊」だとか、「羆」だとか、様々な呼び方がされており、表記が統一されていない。これらの表現を見ると、パンダはそれまで「クマにしては白いやつ」「黒いはずのクマに白が混ざっているやつ」といった視線が向けられていたことが想像される。
パンダの呼び名が統一されていなかったせいか、1930年代後半の中華民国政府の行政文書の中では、パンダがどのような動物かわからないので問い合わせをしているような事案や、パンダを害獣と見なしている事案も発生している。
「お金を積んでも手に入らない動物」に
一転して、1938年ごろから、中華民国政府は欧米人が勝手に中国にパンダを捕りに来ることを問題視するようになり、翌39年にはパンダの禁猟を決定する。その結果、1939年11月にシカゴに渡ったパンダ「メイラン」を最後に、外国人は中国からパンダを自由に持ち出せなくなった。つい数年前に「値札が付いた」パンダは、これを境に「いくらお金を積んでも手に入らない動物」になったわけだ。
ここで新たな展開が発生する。ニューヨークのブロンクス動物園は1930年代後半に2頭のパンダを入手して飼育していたが、2頭は立て続けに死んでしまい、1941年5月にはパンダが1頭もいなくなってしまった。アメリカ社会では新たなパンダを待ち望む声が上がる。すると、同年11月、中華民国の指導者である蔣介石の妻で、中国国民党の国際宣伝の担当者でもあった宋美齢およびその姉の宋靄齢が、アメリカへのパンダ贈呈を発表した。