1972年10月28日午後6時50分、北京から5時間の空の旅で羽田空港についたオスのカンカン(康康、2歳)とメスのランラン(蘭蘭、3歳)。
1972年10月28日午後6時50分、北京から5時間の空の旅で羽田空港についたオスのカンカン(康康、2歳)とメスのランラン(蘭蘭、3歳)。

中国にしかいない特別な贈り物

 当時の中国は日中戦争のさなかにあり、蔣介石率いる中華民国の国民党政権は首都の南京を失った後、中国西南部の重慶に撤退して日本軍への抵抗を続けていた。蔣介石は日本軍に勝つためには日中戦争に国際社会を巻き込むことが必要だと考え、そのためにアメリカの支援を求めていた。そのような状況下、パンダはアメリカ社会から中華民国に対する同情を引き出すために注目されることになったのである。

 宋姉妹は2頭のパンダを贈呈するにあたり、その動物が「世界でも中国にしかいない特別な贈り物」であることを強調した。また、宋美齢は「おどけて白黒でふわふわのこの丸々とした2頭のパンダ」が「アメリカの友情が私たち中国人に喜びをもたらしてくれたのと同じように、アメリカの子どもたちに喜びを与えてくれることを願います」とアメリカ国民に向け訴えた。

「パンダ外交」の最初の事例

 パンダの「かわいらしい」イメージは今では世界中の多くの人に共有されているが、中国政府が意識的にそのようなイメージを打ち出したのは、おそらく歴史上この時が初めてだと考えられる。

 1941年の中華民国によるアメリカへのパンダ贈呈は、中国政府が政治的な重要局面でパンダを海外に送り出す、いわゆる「パンダ外交」の最初の事例だったといえる。こうしてパンダは、愛すべき動物であると同時に、経済的な利益を期待できる動物でもあり、しかし外国にとっては中国政府との良好な関係がないと入手できない動物になったのだ。(『語るパンダ 日本パンダ保護協会20周年誌』より一部抜粋)

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