
音楽があることで、演目自体が…
ちなみに私は原作小説が大好きで、李相日監督での映画化を望んできた。吉田と李のコンビは、「悪人」「怒り」とスケール感のある作品を成功に導いてきた実績があるからだ。ただこの「国宝」の魅力は「~でございます」といった語り文体。映画に移し替えると、言葉が氾濫する恐れがあった。説明過多になるくらいならと、説明不足を選んでいる。勇気が要る決断だったろう。
人気原作の映画化で起こりがちなのは、読者の脳内にある人物と、演じる俳優とのイメージの乖離だ。不思議なことに「国宝」では「誰々がミスキャストだ」という批判もあまり聞かない。私自身もイメージと違うと思った人物はいなかった。
歌舞伎という題材にもうるさ型が多いが、この映画にはもう一つのうるさ型が待ち構えている。関西弁である。関西人はちょっとした抑揚の違いも聞き逃さない。私自身が大阪で生まれ育ったので、その意地の悪さは保証する。しかし、吉沢も横浜も関東出身にもかかわらず、不自然な部分がほぼなかった。
関西人が許しがたいのは、関東の抑揚が交じることではない。テレビなどから標準語がいつも流れてくる現代に純粋な関西弁をしゃべる人間はほぼいない。最も不快なのは、関東人が関西弁をまねようとして、どこにも存在しない抑揚になってしまうことである。
昨春、「国宝」の撮影を見学に行った時、吉沢が方言指導のスタッフに対し、関西のイントネーションを何度も何度も確認している場面に遭遇した。俳優たちの関西弁も、よく聞いてみてほしい。
最後に音楽についても触れておきたい。舞台のシーンで、歌舞伎本来の音楽をかき消すように、原摩利彦作曲の劇伴音楽が大きくかぶさってくる。きっと賛否あるだろうが、私は原の音楽があることで、演目自体が少し後景に退き、喜久雄と俊介を始めとする俳優自身の過ごしてきた歳月が立ち上がってきた。だから見終わった時、「人間の一生とは何と厳しく、そして何と素晴らしいのだろう」という感慨とともに映画館を後にすることが出来るのだ。
(映画評論家・石飛徳樹)
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