「増えている」と言うと、「昔からこの手の被害はあった」「増えているのではなく表に出やすくなったのだ」という声もある。もちろん被害者が告発することで実数が増えている現実がある一方でやはり、文化や社会やテクノロジーの発展などにより「子どもへの加害が増えている」現実があると私は思う。

 少し前にアメリカ人のコメディアンショーを観る機会があった。そこで大爆笑シーンがあったのだが、それは、ティーンの女の子に性的欲望を感じる成人男=軽蔑すべきキモイ犯罪者、という前提がなければとっさには笑えない内容だった。ただの“キモイ”ではなく、“かなりキモイ変態で性加害者で一発アウトの人間”である。そのことに私は驚いた。たぶん同じショーを日本でやっても、そのシーンでの爆笑は起きないとわかるからだ。

 なぜならこの国には、10代の女性への性的眼差しなどが当たり前のようにあるから。日本に生まれ暮らす女の多くは、10代で性的な嫌がらせを味わう。制服を着た女の子を性的対象にする表現物に溢れ、制服を着た中高生を狙う痴漢も普通にいる。10代どころか、もっと幼い子への性的妄想すらポルノとして消費されている。そういう男たちの妄想を「キモイ」とは言えても、「社会的に著しく問題のある妄想に取り憑かれた人」という空気まではできていないのが現実なのではないか。

 欲望とは笑いと同じで、社会と時代が反映される。

 子どもを性的に消費する表現が娯楽として流通する社会で、「子どもの安全」はどのように担保されるのだろう。性加害者のカウンセリングを専門とするカウンセラーによれば、ポルノを観た人が全て犯罪を犯すわけではないが、性犯罪者の100%はポルノを観ているという。欲望が文化的に肯定されることと、実際に犯行に至るまでの距離はもしかしたらとても近いのかもしれない。そもそもそんな距離などコントロールできるものではないのではないか。だいたいテクノロジーが発展した今、わざわざポルノ業者を介さずとも、誰もが気軽にポルノを作れる時代にもなった。ファンタジーとリアルの交差点はますます曖昧にとけていくのではないか。

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