
哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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私の『武道的思考』という本が韓国で訳された。訳者の朴東燮先生が何年も前から出版社を回ってくれたのだが、相手にされなかった。その本が先日訳された。思いがけなく若い人たちによく読まれているらしく、9人の若者が書いた書評を訳して朴先生が送ってくれた。
韓国社会は競争が激しい。それは韓流ドラマを見ているとよくわかる。ライバルを蹴落として、頂点めざして這い上がり、敗者は一顧だにされない苛烈な競争は少なからぬ数の若者たちの心に深い傷を残していると私は思う。
私が「武道的思考」と呼ぶのは「修行者的マインド」のことである。修行者は競争をしない。ただ師の背中を見ながら道を歩く。道がどこに続いているのか、修行者にはわからない。修行の目標は武道なら「天下無敵」、禅家なら「大悟解脱」だが、その境位に達する人はまずいない。だから、それが「どんなもの」だか修行者は知らない。でも、その「無限消失点」のような目的をめざして、修行者はただ道を歩む。もちろん目的地のはるか手前で寿命は尽きる。でも、それを悔いる者も恥じる者もいない。修行とはそういうものだからだ。
だから、修行者は相対的な優劣を競わない。意味がないからだ。無限に遠い道を歩む時に、「他の人より何キロ先まで来た」とか「単位時間内に他の人より速く進んだ」とかいう比較には何の意味もないからだ。修行者は「我執を去り、自在を得る」ことを求められている。「オレは『我執を去る』競争でお前に勝った」という言明がどれほど背理的であるかは誰にもわかる。
「競争」の対立概念は「ドロップアウト」ではない。「修行」である。人と相対的な優劣を競わないことである。優劣、勝敗、強弱、遅速、巧拙を論じないことである。
そう説いた本が韓国の若者たちに好意的に迎えられたのだとしたら、それは「そういう考え方があると知って、ほっとした」ということだろうと思う。
儒教圏朝鮮の士大夫たちは修行が自己陶冶の王道であることを知っていたはずである。その伝統が部分的にでも復活すれば、韓国の若者はずいぶん救われるのではないかと思う。
※AERA 2025年7月14日号
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