それはWHOをはじめとする国際機関による性暴力の定義とは、無数の性被害者たちが必死に声をあげ勝ち得てきた定義だからだ。性暴力とは、露出の多い服を着た女性が、たまたま凶悪な男に出会って、暴力を振るわれ、必死に抵抗したにもかかわらず・・・そういうものだと、「想起」されてきた歴史がある。日本だけでなく世界中で。そういう地獄を生き抜き、性暴力のリアリティーを「定義」にしてきたのは、まさに被害者たちの声なのだ。

 それでは、私たちの社会で、性暴力とはどのように語られ、どのように定義されていくべきなのだろう。

 先日テレビを見ていたら、30代の女性タレントが中居氏側の反論を受けて、「同意って難しいですよね。酔っ払って一夜を共にして、朝、記憶を失っていて、やっぱり同意してなかったって言ったら性暴力になるってことですよね。だったら、そういうことがある度に一回ずつ契約書、書かなくちゃってことになりますよね」と中居氏を擁護するように話していて、目の前が暗くなる。

「セックスする度に契約書を交わせばいいの?」

 性的同意の話が出てくる度に、これまで何度その言葉を聞いただろう。そして私たちは、テレビでそういう語りをフツーに目にしてしまうくらいには、いまだにそういう空気の中を生きている。この国の多くの人が「不同意性交等罪」という法律の後ろをのろのろと歩きながら、「不同意って何ですか?」「それって難しい」「国によって定義違うし」「日本は日本だし」「セックスする度に契約書交わさなくちゃダメ?」と考えているのだ。それはやはりまだ、私たちの社会では、性被害者の声を聞く力がないということなのだろう。

 被害者の声が全てに優先される絶対的な正義というわけではない。それでも、そもそも性暴力が問題になると、必ずと言っていいほど「男性が被るかもしれないえん罪」とセットに語らなければならない空気が濃厚な社会で、「日本」という言葉から私が想起するのは、「とことん性被害者と女性に厳しい社会」、というものである。

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