
同じグループのステーキ店へ衣替えしていたが、体を包む空気に、懐かしさがある。毎日、客と交わす会話に手応えがあった。「ビジター」の率直な感想、「リピーター」の遠慮ない不満、「サポーター」のありがたい提案。そんな言葉を引き出し、店の面々と一緒に料理やメニュー、内装などに、改善を重ねた。
駐車場に立って、入り口があった方をみつめながら、そんなことを思い出す。各地のすかいらーくの中で際立つ繁盛店にできた喜びも、蘇る。
ここは、すかいらーくの193店目だった。ビジター、リピーター、サポーターと増え、すさまじい忙しさに「イクサの店」と呼んだ。イクサは「193」のもじりだ。もう一つ、再訪で目に浮かぶ。20時間営業で早番から遅番へ替わり、早番からの引き継ぎ帳を開くと、こんなことが書いてあった。
「常連の○○さんが『西山君がいないが、どこへいったのか』と心配していました」
同じ引き継ぎが、何度もある。仕事冥利に尽きるとは、こういうことだ。
住吉店で1年になるころ、和食店を東京で展開するプロジェクトのメンバーに選ばれた。でも、弟は4人いたが、長男だ。西山製麺は、自分が継ぐつもりだった。就職先は父に言わずに選んだが、「丸5年修業したら実家へ戻る」と心に決めていた。
新プロジェクトへ参加すれば、具体化に数年はかかる。軌道に乗せるには、さらに何年か必要だ。入社して丸5年で辞めたらその途中で、いろいろ迷惑をかけそうだ。そう考えて、プロジェクト入りをあきらめて退職し、83年4月に西山製麺へ入社する。
1958年10月、札幌市中央区で生まれる。父が西山製麺所(現・西山製麺)を設立して5年、会社と自宅が並んでいた。父は人気を集めていた従兄のラーメン店で麺づくりへ参加し、独立した後に縮れがある腰の強い麺を開発して、成功した。
父が買ってくれたカメラと現像機で撮った写真を焼く
家族は両親と弟4人、祖母の8人。小学校高学年のときに父がカメラを買ってくれ、会社の宴会などで撮影役となる。やがて現像機も買って、自宅に暗室までつくってくれた。山の風景などを撮ってきては、ネガフィルムからベタ焼きで現像する。部活は、中学校から高校まで写真部だ。