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足利将軍を追放するクーデターを起こし、戦国時代の引き金をひいた武将・細川政元。彼は「明応の政変」を機に将軍を傀儡化し、右に出るものはいないほどの実権を握ることになる。彼は「妖術」をはじめとした修行に精を出す一方で、比叡山の焼き討ちなど、織田信長の先例になるような大胆な行動を次々に起こした。

【図】超エリートな細川政元の家系図

細川氏研究の第一人者である古野貢教授は、著書「オカルト武将・細川政元」の中で、「半将軍」と呼ばれた細川政元の絶頂期について言及している。新刊「『オカルト武将・細川政元 ――室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」』(朝日新書)」から一部を抜粋して解説する。

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明応の政変は一見すると家臣によるクーデターそのものです。しかし実際には応仁の乱で守護や諸勢力が分裂し、不安定な状態にあった幕府が、ある程度安定する方向へ向かって行く流れのなかで発生した事件でした。

この明応の政変について、世間としてはとりあえず受け入れるという反応であったと思われます。クーデターを起こしたとしても、政元の社会的にあまりよろしくない振る舞いについても、それなりに評価されていたと考えられます。

ちなみに細川氏の支配する範囲は、政変直後に本来畠山氏の分国である河内国、幕府本拠地で守護が置かれなかった山城国、さらに大和国にも広がって、細川氏一族としての最大領域に到達しています。実際のところどれだけ支配を貫徹できたかわかりませんが、領域支配という点からすれば、やはりこの時が政元という人物の最大到達点であると言っていいでしょう。

また、この頃から政元は「半将軍」と呼ばれるようになっていきます。もちろん将軍の地位についたわけではないのですが、あたかも将軍のように行政執行を行う形になったのでこの呼び名が出てきたと考えられます。

たとえば法律や命令の執行、裁判の判決などは、最初は現場レベルで対応されますが、「うまく解決できない、権限が足りない」となるとだんだん上位権力へ上がっていきます。最終的には将軍が裁決を下し、御教書(命令書)を出して決定する、という形になります。

しかし、書状一枚を出して命令や判決が確定し実行力を発揮するかというと、そうではありません。将軍という公的な立場の人間が公的な手続きを踏んで作った命令書・判決に加えて、それを裏書きして実行力を与えるために実際の軍事力や経済力、政治力を持った人間が添状(副状)というものを添えることが必要とされる場合があるのです。この二枚がセットになって然るべきところに届くことによって初めて、命令や判決が実効性を持ち得るのです。

このようなあり方は幕府をはじめとする政治組織の正当な手続きではなく、イレギュラーなものです。法治国家としての原則には合致していませんが、しかし政治の実態を考えますと、少なくともこの時期には「添状なしには将軍の命令といえども命令扱いになりません」となっていたようなのです。

つまりこの添状を書くことができる人物は将軍の権限の半分を担っているわけです。そのようなロジックから、明応の政変あたりから「半将軍」という言い方が生まれたのだと思われます。

もちろん、政元以前にも添状を書いて似たような働きをする人はいたはずです。そもそも政元自身が義材のために同種の働きをしていました。しかし明応の政変以降、政元の振る舞いは将軍の裏付けではなく「自分のやりたい政治を義澄にやらせる」意識が優先されるものへ変わっていきました。少なくとも周りにはそう見えるようになっていったのではないかと考えられます。

『オカルト武将・細川政元』では、政元が織田信長よりも先に実行した「延暦寺焼き討ち」、将軍追放のクーデターにおける日野富子との交渉など、応仁の乱から信長上洛までの“激動の100年”を解説しています。

オカルト武将・細川政元 室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」 (朝日新書)
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