
こうそ・としあき/1947年生まれ。上智大学大学院文学研究科博士課程満期退学後、上智大の教員となり、91年に同大文学部教授。上智学院理事長、聖心女子大学学長、文部科学省中央教育審議会専門委員などを歴任し、2024年、旭日重光章。キリスト教徒としては14歳で洗礼を受け、30歳でイエズス会司祭に。現在、麹町聖イグナチオ教会主任司祭(撮影/AERA編集部・川口 穣)
4月21日に亡くなったローマ教皇フランシスコの後継を決める選挙「コンクラーベ」が、日本時間7日夜から始まり、アメリカ出身のロバート・プレボスト枢機卿が第267代の教皇に選出された。「レオ14世」を名乗る。そもそも教皇とはどんな存在なのか。その神秘性からしばしば映画や小説のテーマにもなるコンクラーベとは何なのか。前教皇フランシスコが果たした役割や新教皇に望まれることは。教育史学者として上智学院理事長、聖心女子大学学長、中央教育審議会専門委員などを歴任し、現在は聖イグナチオ教会(東京都千代田区)の主任司祭を務める髙祖敏明神父に聞いた。
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――カトリック教会の最高権威者として知られる「教皇」ですが、どんな役割をもっていて、信徒にとってどんな存在なのでしょうか。
教皇は、正式に言うと8つの職責・称号を持つ存在です。全カトリック教会の最高司祭としての宗教上の役割のほか、バチカン市国の首長としての政治的な役割や、ローマ司教としての地位などがあります。信徒にとっては、イエス・キリストの代理者であること、キリストの高弟「使徒」の頭だったペトロの後継者であることも、特に重要なものと言えるでしょう。教皇は信徒の宗教上の「父」で、親愛の情を込めて「パパ様」と呼ぶことが多くあります。
教皇自身は信仰の対象ではありません。ただ、私たちの教会を代表する存在、絶えず心を向けてくれる存在として、信徒の心の支えになっています。
「教会は野戦病院たれ」
――亡くなった前教皇フランシスコは、史上初のイエズス会出身、そして初の南米出身の教皇でした。同性愛に寛容な姿勢をとるなど「改革派」としても知られています。
私自身は4度、教皇フランシスコに謁見する機会がありました。率直な印象は、非常に笑顔のきれいな方。つくり笑いではなく、「本当にあなたを歓迎していますよ」という安心感を与えてくれる、温かさと気さくさを持った人でした。
これは教皇としての歩みにも一致します。教皇フランシスコは「人々と共にある教会」を掲げ、社会の中で弱い立場に置かれた人に寄り添うメッセージを発し続けました。就任後最初の訪問先に選んだのは、アフリカからヨーロッパを目指す難民が目的地とした小さな島でした。復活祭前の聖木曜日に行う「洗足式」という行事を少年院で行ったことも象徴的でした。晩年には毎日のようにパレスチナ・ガザの教会に電話し、安否を確かめていたと言われます。教皇フランシスコは「教会は野戦病院たれ」という言葉を残しています。教会には苦しむ人たちのなかへ出向き、社会の中で傷ついた人を癒す役割があると考えていました。
1990年代半ばに全世界で7億5千万人ほどだったカトリックの信徒は、いまは約14億人。人口増の影響もありますが、教皇フランシスコが世界各地を巡り、発し続けたメッセージが伝わったのだと、私は考えています。

――教皇フランシスコは2019年に広島・長崎を訪れ、「核兵器は使うことも持つことも倫理に反する」という強いメッセージを残しました。平和への思いや日本との関わりはどう感じていますか。
フランシスコの前々任の教皇だったヨハネ・パウロ2世は広島訪問時、「戦争は人間のしわざです」と発言しました。フランシスコの言葉はそこからさらに踏み込んだものです。パレスチナやウクライナにも寄り添い、紛争解決に武力を用いることに反対するメッセージを発し続けていました。
また、あまり知られていないことですが、教皇フランシスコはアルゼンチンのイエズス会員だったころ、宣教師として日本赴任を志しています。1950年代の末か60年代初頭のことです。ただ、彼は片肺の一部を切除しており、肺機能が万全ではありませんでした。健康面の懸念から、まだまだ豊かとはいえない日本への派遣は認められなかったのです。
日本行きを望み、その後も核に反対する姿勢を貫いた背景には、スペイン出身のイエズス会宣教師ペドロ・アルペ総長の影響があったと思います。原爆投下時に広島の修練院長だったアルペは被爆者の救護に取り組み、多くの命を救いました。そして戦後、世界を巡るなかで原爆による惨状を訴えたのです。イエズス会入会の前後に、フランシスコもアルペに接していたはずです。時期を同じくし、ローマのイエズス会本部から世界の各管区に向け、新たな国づくりにまい進する日本へ向かう宣教師が募集され、フランシスコは手を挙げました。
自身の赴任はかないませんでしたが、フランシスコはその後、アルゼンチンの何人かの若い優秀な教え子を日本へ送りました。今も彼らが日本で活躍しています。