
テイストの違う作品を
ところがまもなく、身体にもメンタルにも不調をきたすようになり、仕事を辞めて一家が別荘を持っていたバルセロナから120キロ離れたモンロッチという田舎町で、療養生活を送ることになった。
モンロッチの自然あふれる美しい風景に心を奪われたミロは、あらためて絵画制作に没頭する。療養を終えたあとはバルセロナに戻り、父に反旗を翻して私設の美術学校に通うようになった。
その頃のヨーロッパは、近代化で都市の姿も変容、写真の登場でアートの目的も変わり、同時に過去の常識をぶち壊す反逆児だった印象派が登場したのをきっかけに、新しい芸術のムーブメントがつぎつぎ生まれる激動の時代に突入していた。
例えばセザンヌらのポスト印象派や、原色を使って荒々しい筆遣いで描くフォービスム、立体物を平面化して新しい表現を模索したキュビスムなど、斬新な芸術運動がパリで盛り上がりを見せていた。
この頃のミロは、こうした芸術運動のエッセンスを自分の作品に吸収しようと試み、テイストの違うさまざまな作品を残した。

過酷な現実、詩的に
やがて1920年代になると、ミロはパリにアトリエを借りて、同じくスペイン出身で、キュビスムの画家としてパリで成功を収めていたパブロ・ピカソや、シュルレアリスムの画家や詩人たちと交流するようになる。
時計がぐにゃりと曲がった、シュルレアリスムの画家、サルバドール・ダリの絵からもわかるように、彼らが描いたのは、おもに夢や無意識の世界。ミロの作品にも、貧困による究極の空腹状態で見えた夢の世界の不思議なモチーフがたびたび登場するようになった。
また詩と美術が強く結びついていたシュルレアリスムの影響か、絵画のなかに詩を書いて一体化させる「絵画=詩」というシリーズを制作した。
その後30年代になると、スペイン内戦が勃発。続いて第2次世界大戦が始まり、ミロは戦禍を逃れて、フランスやスペイン各地を転々とするようになる。キャンバスの代わりの紙と絵の具などをバッグに詰めて、のちに最高傑作と呼ばれるようになる〈星座〉シリーズなどを描いた。