私の歌舞伎の仲間はいい奴らばっかりだ。私が死のうとしたとき、寒い中、歌舞伎中を泣きながら探してくれた奴。私が少し暗い顔をしただけで、何気なく隣に座ってくれた奴。ホームレスがいたら水を買って渡してあげる奴。ふざけていて何も考えてないように振舞うくせに、裏では誰よりもみんなを笑顔にしようと考えている奴。
みんな「死にたい」と言う。みんなリストカットをする。みんなOD(オーバードーズ)をする。私は思う。君たちは死にたいというくせに、次の日も生きていけるように明日のお金がどれだけあるかを心配している。リストカットは死ぬほど深くは切らない。死ぬ量の薬は服用していない。「死にたい」と思いながら明日に希望を求めてもがいているように思える。私もそうだ。よく頑張っている。えらい。
私はその仲間にあまり連絡をしないし、連絡が来ることもない。でも、お前たちが幸せになって欲しいと願っている。なにも諦めることはない。お前たちはそのままで、生きているだけで、そこにいるだけでとても素敵だ。自分がクソとかゴミとか思わなくていい。私は優しさと笑顔をお前たちにもらった。その記憶はいつも傍にいる。
孤独に泣く夜があっても、何かの拍子に一瞬でも思い出してほしい。私がお前たちと接点がなくても、お前たちを思っていることを。そして、向かい風ばかりの毎日を、なんとしても生きようとすることを。悲しさも虚しさも消えないし、寂しさも消えない。みんなどこかで孤独なのだろう。私はお前たちの苦しさをわかりきることはできないだろう。でも、私とお前たちの間には愛がある。この気持ちはいつも私の心の中にある。
私に出会ってくれてありがとう。おかげで1人じゃないとわかった。出会いは人生の全てだ。
きゅーりさんは、いまもリストカットやオーバードーズをしてしまうときがある。自分の体を傷つけ、命に関わる行為に「やめなよ」と大人が言うのは簡単だ、と思う。歌舞伎町を出てからも、「そんなことしちゃだめだよ」「そんなことしなくていいのに」と言われたことがある。でも、「そうすることでしか生きてこられなかった、他の選択肢がなかった人がいることも、知ってほしい」。人それぞれ生きてきた人生も、味わった経験も違う。誰かに話を聞いてもらったり音楽を聴いたりすることで日々のつらさを発散できる人もいれば、そういうことができないままに生きてきた人もいる。
SNSにはいまも、リストカットやオーバードーズの様子をあげる人がいる。「自分はこんなにつらいんだよ、がんばっているんだよ」という声の代わりだ、と思う。
きゅーりさんにとっても、自傷行為は自分の体を傷つけることで複雑な心の痛みを変換し、落ち着かせるような行為だった。心が苦しい、つらい気持ちが整理できない、そんな気持ちで胸がいっぱいになったときに、自傷行為をすることで「ああやっぱりつらかったよね」と認識できて涙が出てくる。
だからこそ強く思う。大人には、自傷行為をする若者たちをただ否定するのではなくて、「『がんばってるの知ってるからね』って言ってほしい」。傷つきながら、痛みを抱えながら、それでも生きてきた証拠だから。
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