
「ガブリエルが家にやってきて『あなたは懐胎しました』とマリアに告げた時、夫のヨセフは〈神という権力〉によって人権を奪われるわけです。当時は不貞によって身ごもったら石打ちによる死刑ですよ。ヨセフも悩みますよね。彼は突然マイノリティーになってしまった。白人男性がマイノリティーになった時に一体何がリアリティーになるのか。それを僕は描きたかったんです」
「受胎告知=神様のハラスメント説」という視点はなかった! 言われてみれば確かにそうなのである。マリアは気の毒だがヨセフも夫としての立場を失った。しかもマリアほどの救済も用意されていない。
松山がキリスト教を記号化して作品に取り入れているのは、「アメリカでは英語よりもキリスト教が『公用語』だから」。その「公用語」に対し松山は、マイノリティーの目でさまざまな記号を付け加えていく。作品にたびたび登場する日本の美術やサブカルチャーがその一例だ。
マイノリティーの視座
「僕は何かしらの形で常にマイノリティーである環境の中で生きてきました。母は戦後間もない時期に生まれた女性としては珍しくアメリカに留学し、クリスチャンになりました。帰国後に父と知り合って飛騨高山に嫁いだのですが、敬虔なクリスチャンだったので、お祭りに代表される仏教神事には一切参加させてもらえませんでした」
みんながお囃子の練習をしている時も松山と兄は家にいるしかない。古い伝統を持つ地方都市ではマイノリティーそのものだった。その後、父が牧師となるために家族で渡米した時も、日本人一家はマイノリティーだった。3年半後に再び飛騨高山に戻った時はすっかりアメリカンキッドと化しており、ますますクラスで浮いてしまった。全寮制の中高一貫校でも帰国子女という理由でいじめを受けている。その都度松山は持ち前の積極性で乗り越えてきたが、心の中に刻まれたマイノリティー性は問題意識となって、美術家としての彼を支えている。
今アメリカには、かつてないほどの「分断」危機がある。ニューヨークに長年暮らす松山には現実がどのように見えているのだろうか。