三井さんの自宅には遺骨が置かれていた

出所して「今度こそ検察をやっつける」

 09年夏に静岡刑務所に行った時、面会時間の終了が告げられ、立ち合いの刑務官が先に部屋を出たわずかのすきに、三井さんが仕切りのアクリル板に近づいてきて小声で言った。

「あと1、2カ月で仮出所になるようだ。妻だけに言ってくれ。出てから再審請求をやる。徹底的に戦うから、弁護士も交えて、その先を考えてくれ」

 しかし、仮釈放は実現しなかった。検察が猛反対したという。三井さんは激怒していた。

「どこまで検察はワシを陥れたら気が済むんや」

 10年1月、ようやく出所し、神戸の自宅に帰る新幹線で缶ビールを手にすると、

「いやあ、うまい。これで力がわく、やるで」

 夜には支援者から、豪華なフグが届いた。

「刑務所のメシは食えたもんじゃない。最高や。今度こそ検察をやっつける」

 再審請求や検察裏ガネ問題のさらなる告発を口にして、意気軒高だった。酒が飲めない受刑生活の間に、糖尿病もすっかりよくなっていた。

「正直、ワシも疲れた」

 だが、長い禁欲生活からの解放が裏目に出た。

「なんぼでも酒が飲めるぞ」

 と三井さんは夜のネオン街を闊歩しはじめ、酒におぼれるようになってしまった。酔って駅のホームから転落し、大惨事になりかけたこともあった。

 コロナ禍の前ごろからは体調を崩して病院通いをするようになった。とりわけ足が弱っていたが、それでも週に2日ほどは杖をつきながら三宮の繁華街にあるなじみの居酒屋に通っていた。

 数年前、自宅で会った時には、

「カルロス・ゴーンの事件でまた検察はデタラメ捜査をやっておる。いつまでたっても反省がない。これじゃいつまでもアカン」

 と語っていたが、次第に再審請求への執念が薄れているのを感じた。

 そんな時、三井さんはふとこうつぶやいた。

「裏ガネを告発すると、検察はワシを刑務所行きにまでした。そこまでやるかと思ったが、それが検察の本性や。正直、ワシも疲れた」

 受刑生活の時点で精魂尽き果てていたのかもしれない。結局、再審請求も検察裏ガネのさらなる告発もできず、三井さんはこの世を去った。

「家族には何もいわず、自由気ままに好き放題やってきましたね。本人は楽しい、いい人生だったと思います」(厚子さん)

 ご冥福をお祈りします。

(AERA dot.編集部・今西憲之)

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