三井さんが記者に預けた検察官のバッジと身分証明書

「被告席に座るべきは検事総長だ!」

 02年7月の初公判で三井さんは、公訴事実を否認し、こう訴えた。

「どうして私が被告席にいるのか。座るべきは検事総長や検察首脳のほうだ!」

 しかし、05年2月、大阪地裁は懲役1年8カ月などの実刑判決。その後、控訴、上告も棄却され、08年9月に実刑判決が確定。収監されることになった。

 収監される前夜、三井さんと酒を飲んだ。

「悔しい、はらわたが煮えくりかえる。裏ガネを山のように使っていた検察幹部はのうのうと自由に街を歩く。こっちは真実を語り、裁判でも認められた検察裏ガネを内部告発しているにもかかわらず、この判決。くそ、ホンマに許せん!」

 三井さんは大荒れで、立つのもやっとの状態になるまで焼酎をあおった。

 翌朝、収監の呼び出し状の指示に従って、三井さんとともに車で大阪高検に向かった。車の中で三井さんは、ポケットに入れていた検察官のバッジと身分証明書を私に手渡した。逮捕され、懲戒免職になったが、自分の手元にあったという。

「刑務所から出るまで、預かってくれ。またこれが必要な場面が出てくるはず」

刑務官は「わしらはわかってる。辛抱や」

 当初は大阪拘置所に収監された。当時、三井さんは重度の糖尿病で薬が手放せなかったが、拘置所では持参した薬の服用が認められず、治療も受けられなかったといい、収監から間もなく三井さんからのSOSの便りが届いた。

「検察は拘置所まで手をまわしている。糖尿病の薬がぜんぜんもらえない。このままなら殺される」

 拘置所で面会した三井さんは、肩で息をするほど弱っていた。

 この時は弁護団の尽力でなんとか治療が受けられるようになり、命をつないだ。その後、静岡刑務所に移送され、受刑生活が始まってからも、私は月に1、2回は面会に訪れた。

「外で運動の時間になると、他の収容者が『先生、相談が』と寄ってくる。誰にも名前を言ってないのに、すでに知られとる。有名人やわ。しゃあないからいろいろと相談に乗る日々や」

「幹部の刑務官が独居房のほうにまわってきて、『三井、我慢せえよ』『わしらはわかっているからな。辛抱や』とこっそり声をかけてくれる。嬉しくて涙が出そうになった」

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カルロス・ゴーン事件でも検察に怒り