〈手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が〉
 この歌を詠った翌日、歌人・河野裕子は世を去った。2010年8月、蝉の鳴く頃だった。
〈雨?と問へば蝉声(せんせい)よと紅は立ちて言ふ ひるがほの花〉
 本書は、夫で歌人の永田和宏、息子の淳、娘の紅が1500首余りを選んだアンソロジーである。生涯に出した15冊の歌集をたどるうちに、家族のなかの河野の姿が徐々に立ちあがってくる。
〈しんしんとひとすぢ続く蝉のこゑ産みたる後の薄明に聴こゆ〉
 たとえばこれは河野が初産のときに詠ったもので、歌集『ひるがほ』に収められている。先に挙げた歌は、この歌を踏まえていると気づく。最期まで息をするように詠った河野は、妻であり母であり、なにより歌人であった。

週刊朝日 2016年11月11日号

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