1995 年3 月20 日、地下鉄サリン事件発生直後の日比谷線築地駅付近。地上に運び出された乗客は救急車などに収容された
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オウム真理教による地下鉄サリン事件(1995年3月20日)の発生から30年が経過する。多くの犠牲者が出たことや被害者を救済できなかったことへの問いかけは、歴史的にも、未だ明確な答えを得ているわけではない。そのなかで今回、当時の刑事警察のトップであり、警察側で当事者中の当事者といえる垣見隆氏が、いかにオウム事件に対峙したのか、初めて詳細に証言した。警察はオウムとどう向き合っていたのか。そして、地下鉄サリン事件は防ぐことはできなかったのか。(第2回/全3回)

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(この記事は『地下鉄サリン事件はなぜ防げなかったのか 元警察庁刑事局長 30年後の証言』(朝日新聞出版)から一部抜粋、再編集したものです)

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坂本事件捜査本部との情報交換

──警察庁で会議が行われたのですね。それは8月のいつで、内容はどういうものでしたか。

垣見 日付は8日です。坂本事件は神奈川県警察の磯子署に捜査本部があったのですが、その担当者との打ち合わせでした。警察庁捜査一課では、以前から磯子署捜査本部の担当者から、オウム教団がサリンに関心を持っているようだとの話を聞いていたこともあり、長野県警察の捜査一課長からの報告により薬品捜査の状況を把握したので、松本サリン事件とオウム教団との関連性の検討をするために、磯子の捜査本部との情報交換が必要と考え、会合を開催したものです。

 この情報交換のなかで、「松本サリン事件発生の前に、オウム教団の機関誌でサリンに言及している」という情報が上がってきました。長野県警察からの化学原材料入手経路情報との繋がりが、そのあたりから見えてきたわけです。つまり長野県警察からの「オウム教団がサリンの原材料を大量に購入している」という情報と、神奈川県警察からの「オウム教団は、松本サリンの事件の前に、機関誌のなかで、サリンについて言及している」という、2つの情報を前に、警察庁捜査一課では、松本サリン事件にオウム教団が関与しているのではないか、との疑惑を有するに至ったのです。

 翌9日になって、情報交換の結果とともに、捜査一課が抱いた松本サリン事件へのオウム教団関与の疑いの認識が、私のところに報告として上がってきたのです。

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