最初に課長に注意してもらえて、運がよかった、と思う。半世紀を超えた会社人生で尊敬する人が3人いたが、その最初の1人で、名前は武内正康さん。人格者で、敬服して結婚式の仲人も頼んだ。
大阪製造所へ赴任しても、謙虚な気持ちで相手に接し、学んで、相手の意見をよく聞く。そう心がけて、「現場」からいろいろ教わった。ここで5年9カ月、十倉雅和さんがビジネスパーソンとしての『源流』になったとする日々だ。武内さんの言葉は、その『源流』の水源になったのだろう。
1950年7月、兵庫県西脇市で生まれる。父は地元紙の記者、母は小中学校の教諭で小学校1年生の担当が多く、50歳過ぎまで勤めた。当時では珍しい共働きで、小さいころは同居していた祖父母に育てられ、やがて3学年下の弟が生まれて6人家族となる。
地元の小・中学校から、県立西脇高校へ進む。東京の大学へ進む例の少ない高校だったが、受験勉強をしていたら一番難しい大学へいきたくなり、東大を目指す。だが、受験の69年春は大学紛争で東大の入試が中止になり、早稲田大学へ入った。
でも、授業はほとんど学生運動で中止。授業へいくよりも、早慶戦の野球で応援したことが記憶にある。翌年に東大を受けて、文科II類から経済学部へ。就職先は、学友の多くが銀行を目指すなか、「ものづくり」で本社が故郷に近い住友化学工業(現・住友化学)を選んだ。
意思決定の迅速化と現場への権限移譲に「小さな本社」を提言
同期入社は約90人で、事務系は26人。本社査業部へ配属されたのは自分だけ。人事部の質問に「会社全般の動きが分かるところへいけたらありがたい」と答えたら、希望通りになった。
89年暮れ、社長が「2001年に国際規模の総合化学会社になる」とする長期経営戦略を宣言。査業部の部長補佐として東京勤務だったときで、戦略の策定へ参加。90年8月の経営会議へ、意思決定の迅速化と現場への権限移譲を柱とする「小さな本社」への提言を出す。
大阪製造所時代から感じていた「本社の権限が強過ぎて、設備投資も工場や事業部門ではなく本社が決めているのでは、世の中のスピードや環境の変化についていけない」との思いが、現場重視を明確にさせた。『源流』からの流れが、勢いを増す。