実験は楽しいが、論文を書くのは辛い。でも、先生はいつも夜10時まで残って、相談に乗ってくれた。論文案を「こういう内容にします」とみせると、赤ペンで添削して「明日までに書き直してこい」と言って帰る。午前2時ころまで書き直し、帰宅して寝て、翌朝に出社。そんな日々が1年半くらい続き、論文が通る。テーマは、もちろんメッキだ。この間、研究室は事実上、工作室だった。不良品の分析から、まだ世の中にないメッキ装置をつくることへ重点が移り、研究室にある器具が使えて助かった。メッキに関する新しい知識が蓄積され、『源流』が流れ始めていく。

 87年3月に同大工学部を卒業するとき、清川メッキの創業者で社長の父・忠氏(現会長)が勧めた大阪府の電機メーカーへの就職を断り、大学院の修士課程へ進んだ。そのメーカーは創業家の子弟を受け入れ、後継者として修業する場を提供していた。そんな「レール」に当然のように乗るのが、嫌だった。

「大学院の試験では何人か落ちる」と聞き、化学工学を猛勉強した。試験に通って、会社の経営を継ぐかどうかは別にしてメッキについて知っておこうと決め、社内で研究テーマを探す。博士課程で流れ出す『源流』の水源が、生まれていく。

 修士課程を終えて89年4月に富士通へ就職し、川崎市の工場で半導体開発チームに配属された。当時の富士通は国内外で半導体工場を増強し、開発チームの面々は応援に派遣され、残ったのは先輩1人と自分だけ。新人社員も何でもやらされ、半導体の開発にも取り組めた。

 3年目を迎えるころ、新しい開発プロジェクトが決まる。参加させてもらおうと思ったら、母から電話があり、父の体調がよくないから帰ってきてくれないか、と言われた。5年したら退社し、清川メッキへいくつもりだった。でも、そうすると新しいプロジェクトを途中で抜けることになり、チームに迷惑をかける。退社を決断した。

「父の体調が悪い」聞いて帰郷すると元気で母にやられた

 帰郷して92年1月に清川メッキへ入ると、父の体調は悪そうにみえない。「おふくろにやられたな」と苦笑し、技術部門を受け持った。やがて、冒頭で触れたように博士課程への入学を勧められて、応じた。

 1964年4月、福井市で生まれる。父母と弟2人の5人家族。父・忠さんは繊維メーカーに勤めていたが、20代初めに退社。起業を志し、職業別電話帳をみて市内に少なかったメッキ会社を選び、肇さんが生まれる前年に清川メッキ工業所(現・清川メッキ工業)を設立。母・トヨ子さんと創業した。

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