きちんとした人だから
小説にはごみ屋敷と化した弥生の家を美佐が片付ける場面があるが、あまりにもリアルで、経験した人にとっては、うちと同じでその通りだと身につまされる思いになるかもしれない。
認知症になり、ごみ屋敷化していくことはよくある。昔はきれいに片付けられていた人の家が、どうしてこうなってしまうのかと思うかもしれない。
「弥生もそうですが、きちんとした人はごみを分別しようという意識が高いので体が言うことを聞かなくなって集積場にもっていけなくなり、溜まってしまうこともよくあると思うのです。ごみ屋敷になってしまうのは、その人がだらしないからというだけではないはずです」
ごみを片付けようとすると、「それはごみじゃない!」と叱責されてしまうこともよくある。
「私は現在はリサイクルセンターに資源になるものを車で持って行っていますが、それができなくなるとどうなるだろうと不安になりました。SDGsを強調し過ぎず、体力や運ぶ手段がない人のことも考えないといけないですね」と湊さんはこれからの超高齢社会への課題も提示した。
子は親を実は知らない
介護をする美佐と、される弥生は叔母と姪の関係で直接の親子ではない。ワンステップ置くことで見えてくるものがあるのではないかと考えたとも話す。
「少子化で一人っ子が増えていくと、自分の親だけでなく、おじやおばの対応をする必要が出てくるのかもしれないと考えたところもあります」
直接の親の場合、子どもはかつての元気な姿から弱ってしまった親の状態を見るのがつらいことや、嫌なことを言われたという記憶もあり、感情を含めて割りきれない面もある。
だが、他人なら、客観的に見え、やさしく接することができることもある。
ただ、子どもは親のことが見えているようで、実は見えていないとも湊さんは強調した。
「以前、妹と仮に両親が亡くなって葬儀をする時にどんな音楽をかけるのがいいかと相談をして、私たちが考えていた曲の話をすると、全然違っていました。二人とも若い時に好きだった曲がいいとのことでした」
父は生まれた時からお父さんではなく、母もお母さんになる前の人生があったことを改めて認識したという。
「親という見方だけでなく、一人の名前を持った個人として捉えることができるといいですね。人の人生も大きな物語のようで、上巻と下巻があり、今が親の物語のどの辺りなのかという見方もできますし、子どもである自分が生まれた時が下巻の始まりであれば、子どもは親の上巻を知りません。それなら親の上巻を知ることで、もっと深く個人としての親が理解できますし、そうなればいいなという思いもあります」
親をよく知ることでやさしく接することもできるはずと湊さんは続けた。