一時期盛り上がった「地方創生」に、福岡県の市町村と一緒に取り組んだが、やや息切れしていた。新政権下でもう一度、本気でやるつもりだ(写真/狩野善彦)
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 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2025年2月17日号より。

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 1987年4月から91年6月までいた二つ目の配属先、福岡県東部の行橋支店で身に染みたことがあった。融資係にいて、企業や病院など融資先として有力だと思うところを回っていたときだ。ある歯科医師に突然、「きみは、もう出入り禁止だ」と告げられる。どうしてかと尋ねると、相手は言った。

「きみは『おカネを借りませんか』とか『ご融資します』としか言わない。これだけ時間を取ってあげているのに、何か私のために役立つ情報を持ってきたことがあるか」

 はっ、とした。確かに、融資の実績を上げることばかりが頭にあり、顧客第一、お客優先の姿勢を後ろに置いていた。五島久さんがビジネスパーソンとしての『源流』になったとする経験は、10代半ばにある。そのときに生まれた「まず相手の話をよく聞いて、何をしてほしいのかをつかむ。その実現に何ができるかを提案し、一緒に目標へ向かう」との思いが、いつの間にか澱んでいた。でも、蘇る。

 62年2月に鹿児島県大口市(現・伊佐市)で生まれ、父は中学校の社会科教諭、母は美容室を経営し、6歳下の弟と4人家族。大口市は本県に近い盆地にあり、年間の寒暖差が大きい。冬に氷点下10度へ下がり、雪が30センチ近く積もったことを覚えている。小さいころは野球に夢中で、「将来はプロ野球の選手になりたい」と言っていた。

ギターを手に現れた若い先生とみんなで教室で歌った日々

 でも、母が持っていたクラシック音楽のレコードを聴き、音楽という『源流』の水が湧き出す。小学校6年生になるとき、大学を卒業してまもない先生が着任し、ギターを持って教室へ現れた。そのギターの伴奏で、みんなで歌う日々が始まる。先生は岡林信康、大口市生まれの吉田拓郎、赤い鳥などの曲を教えてくれた。豊留悦男先生。名前を忘れたことは、ない。

 市立大口中学校で、野球部ではなくブラスバンド部を選ぶ。大太鼓や小太鼓、シンバルを受け持ち、それらがセットになったドラムスを始めた。ここでも『源流』の水を溜めてくれた先生と出会う。部の顧問で、どの楽器にも通じていて、譜面を起こして編曲もやり、それをみんなで演奏する。その指導で、2年生の県大会で賞をもらった。

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意欲が先走って大事な書類を紛失同期に昇進が遅れる