6日(木)に、ゴンサロ・ルバルカバのピアノソロ@東京文化会館小ホールに行ってきた。
オリンピックイヤーの今年「速く走る人、泳ぐ人」や「高く、遠くに跳べる人」とか、いくら大勢見ても、つまるところ「ふ~ん。すごいんだなあ」の一言ですんでしまうのだけど、自分がピアニストという人種の一端にいるので、「超弩級の凄いピアニスト」を目の前で体感すると、気持ちの流れはいつもこうなる。
「いやあ、とにかく“すばらしい”の一言あるのみ。超絶テクニックだけでなく、このどこまでも深い音楽性。ひたすら敬服の外はない」~「近づきたい? これからいくら練習しても追いつかないだろうなあ。人は人。自分は自分。今自分のやるべきことをがんばればいい」
こういう風に自分の気持を“落とし込む”しかないのだけれど、スポーツの世界は記録と勝敗が厳然たる事実だが、音楽を含むアートの世界ではいつも「個性」の一点で許されてしまうということでいいのか。すべての表現に順位を!なんて考えるドアホな私がいつもここにいる。
じゃ、誰が1位なん? 例えば絵画でピカソが1位。文学はシェークスピアが1位。映画は黒澤明が1位。これは、日本映画も世界映画も含め。じゃ小津は? 成瀬は? ああ、そこつっこんだらあかん。作曲家はバッハ1位ですか? うっ。同率1位で100人くらいはおるんやないの(汗)
妄想は深まるばかりだが、ゴンサロがジャズピアノ世界ランク1位だとしたら、私は1238位くらいには位置してるのかなあ? もっと下かなあ。来年は900位台くらいに行けるようにせねば。という風に、つい考えてしまう。でも「個性=人は人、自分は自分」の一点にいつも落とし込んで納得(するふりを)するより、なにくそ、ゴンサロとてライバル!くらいの負けん気をいつまでも持っていなければだめでしょう。“チャンジイ”の私でも負けんぞ!って、ゴンサロ、私の3つ下の53歳。もちろん彼にはチャンジイ意識なんて微塵もありません(実は私もないのです。じゃ言うな)
この日のハプニングで鳥肌もん&すごく得したのは、世界ランク5位(もうええわ順位は。ええかげんにせい!)の小曽根真さんが、ゴンサロの呼びかけに応じて客席からすたすたとステージへ。で、《スペイン》を連弾したのだが。まあ、これが絶品! 二人のじゃれ合い?会話?バトル?なんでもいいのだけど、自然体で、まったく構えていないのに、まあ、出るわ出るわ珠玉のフレーズ雨あられ。「あんた、そうくる? じゃ、あたしゃ、こう」囲碁の名人戦もかくあらん。
ああ、一度でいいからこのスーパーハイレベルな次元で会話したい、と、そんじょそこらのピアノ弾きはみんな思うことでしょう。弾くという「身体」より、感ずる「耳」のほうが遥かに先に行ってるところが、うれしいやら憎いやら。
で、話はとんで『ピアニストは語る』(ヴァレリー・アファナシエフ著、というか実際には、“すばらしい引き出し役”の青澤隆明さんとの対話集。講談社現代新書)のP148にこうある。
「私は、いま現在の私というものは、これまでの私の人生の歩みの最終的な帰結である<中略>錬金術師なら、私とは、私が作り出した金なのだと言うでしょう」
いいこと言うなあ。順位なんかつけて、無駄にやっかんでるヒマあったら、錬金に精を出そうよ、私! そして、次ページにはこうもある。
「何ごとも、あるがままに受け入れる。そしてそれを自分に合うように組み替えてゆく、それが人生の正しいプロセスだと思います。あるがままに受け入れ、しかる後にその対象に対して、自分から働きかけるのです。」
はい。そうします。アファナシエフ師匠。
で、今回のタイトル。「どうやって?」の答え。当たり前ですが「日々をきちんと丁寧に生きる」ということに尽きるかなあ。誰がどう見ても私の場合「あるがままに受け入れ」まではできていても、その後の「対象に対して、自分から働きかける」とこがまだできていないようだ。ううう。反省。 [次回10/24(月)更新予定]