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阪神タイガースで名遊撃手として活躍し、監督としても1985年に阪神を初の日本一に導いた吉田義男さんが2月3日、脳梗塞で亡くなった。91歳だった。吉田さんが阪神の監督時代に、阪神の江夏豊さん、南海(現ソフトバンク)の江本孟紀さんという両チームのエースを含む大トレードがあったが、江本さんは「吉田さんが持ち込んだ話だと聞いています」と舞台裏を明かしてくれた。
【写真】今も破られぬ401奪三振の日本記録を作った阪神のエース時代の江夏豊さん
吉田さんは京都市出身で、立命館大を中退して1953年に大阪タイガース(現・阪神タイガース)に入団、引退まで17年間、阪神一筋でプレーした。初年度からいきなり遊撃手のレギュラーとして活躍し、ベストナインに9回選出された。当時はゴールデングラブ賞がなかったが、あれば毎年のように受賞していたはずだ。引退後は、野球解説者などを経た後、阪神の監督を3度務め、1992年には野球殿堂入りした。
「僕が吉田さんのプレーを生で見たのは、現役の晩年でしたが、まさに『牛若丸』と呼ばれる華麗な守備でした」
と江本さんは語る。
吉田さんと二遊間を組んだのは、引退後にサンテレビの解説で定評があった故・鎌田実さん。吉田さんと鎌田さんの「黄金の二遊間」の華麗な守備は「守備練習で銭が取れる」とも言われた。
「今ではセカンドでは当たり前のバックハンドトスですが、それを最初にやったのが鎌田さん。その難しいトスを受けて、いとも簡単にダブルプレーにして平然としていたのが吉田さん。かっこいい二遊間でした」(江本さん)
「交換相手は江本、そこは譲れん」
1976年1月、南海のエースだった江本さんに、トレード話があると伝えられた。トレードの相手は、阪神のエース、江夏豊さん。すでに最多勝や最多奪三振など数々のタイトルを獲得している球界を代表する投手だった。
江本さんが言う。
「当時、阪神の監督だった吉田さんから南海の野村克也監督に、江夏さんのトレード話が持ち込まれたそうなんです。2人から直接聞いたのですが、吉田さんが『江夏がわがままでうちの球団では面倒がみれない』『江夏をなんとかしてくれるのはノムさん(野村さん)しかいない』と野村さんを口説いた。最初は思案していた野村さんも、当時はキャッチャーで選手兼任監督でしたから、『江夏のような大エースの球を受けてみたい。俺ならなんとかできそう』と話は進んだ。野村さんが前向きだという情報を得ると、吉田さんは『交換相手は江本、そこは譲れん』と私を指名してきたそうです」