古来、日本人ほど月というもっとも身近な天体と親しみ、その風情を愛してきた民族はいないかもしれません。満ち欠けする月にさまざまな名をつけ、二十三夜講、二十六夜講などで月の出を待って集いました。創作物でも和歌や俳句はもちろん古くはかぐや姫から現代の「セーラームーン」まで、月をテーマやモチーフにした物語は数え切れません。
そんな月大好き民族の日本人なのに、神話の集大成、日本書紀・古事記での月の神様の存在感の薄さ、出番の少なさはちょっと不自然。日本神話の大きな謎のひとつとされてきました。名をツクヨミ(ツキヨミ)ノミコト。太陽神・天照大神(アマテラスオオミカミ)と日本神話のスーパースター素盞嗚尊(スサノオノミコト)とともに、三(みはしら)の神といわれながら、ほとんど出番のないミステリアスな神。なぜなのでしょうか。その正体に隠された秘密とは?
月読神社は神道発祥の地!?
「次に月の神を生みまつります。一書に云はく、月弓尊(つくゆみのみこと)、月夜見尊(つきよみのみこと)、月讀尊(つきよみのみこと)といふ。その光彩しきこと、日に亜(つ)げり。」(日本書紀第五段本文)
月の神・ツクヨミノミコトは、日本書紀において国生みの対の神・伊弉諾尊(イザナキノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)が日の神大日霎貴(おおひるめのむち)の後に産んだ月の神として登場します(「共に日の神を生みまつります。大日霎貴(おおひるめのむち)と号す(もうす)」)。
なおあの有名な、黄泉の国から帰ったあとに禊をして三貴子(天照大神・月讀尊・素盞嗚尊)を両目と鼻から産んだというエピソードは、異伝である一書六に記されています。そしてその後、イザナキノミコトにより「アマテラスは高天之原を統治しなさい。ツクヨミは太陽とともに天の運行を担い、スサノオは海を統治しなさい。」とそれぞれの役割を与えられます。
このように並び立つ三神であるはずが、アマテラスとスサノオが後の物語に多く登場するのに対し、ツクヨミは保食神(ウケモチノカミ)を切り殺すという行いからアマテラスの不興を買う形で、「もうお前とは会わない」と絶縁されて以来、ぱたりと出てこなくなります。現在、天照大神を祀る神社は伊勢神宮を筆頭に各地の神明神社・大神宮、素戔嗚尊を祀る神社は八坂神社などどちらも数万とも数十万ともいわれる数の多さを誇るのに対して、ツクヨミノミコトを祀る神社は100にも満たない少なさです。
有名なところでは、東日本の総鎮守といわれる山形県出羽三山の月山神社、伊勢神宮内宮(皇大神宮)別宮の月讀宮(つきよみのみや)などがありますが、全国の月神の本社(元宮)は、何と長崎県のはるか沖の離島・壱岐にあります。顕宗天皇3年(487年)阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が天皇の勅命を受け、当時情勢不安な朝鮮半島の任那に使いに出ます。
その際に月神が神がかりし、「土地を月の神に奉納せよ、そうすればよい事があろう」という託宣を受けます。これを聞いた朝廷は京都嵐山に壱岐の月神を分霊して、月読神社をまつりました。これが嵐山の月読神社で、京都でももっとも古い神社ですす。そして、京都の月読神社から発して日本全国に神道が根付くようになりました。したがって、壱岐の月読神社が全国の月読社の「元宮」(もとみや)となるわけです。そして、この壱岐月読神社が神道の発祥の地ともされています。
対になる阿麻氐留(あまてる)神社には、意外な神が祭られていた
この壱岐の神がかりの2ヵ月後、対馬でまたも阿閉臣事代(あへのおみことしろ)に「日の神」がのりうつり、磐余(いわれ)の田を「我が祖高皇産霊尊に献れ」と託宣が降ります。この託宣を受けて建てられたのが阿麻氐留(あまてる)神社。対馬は古事記の建国神話では最初に生まれた島々(「大八洲」)の一つ(津島)であり、 日本書紀の国産み神話では「対馬洲」「対馬島」の表記で登場し、離島でありながら強く当時の大和政権に意識されていた土地でした。阿麻氐留(あまてる)神社は現在御祭神は天日神命となっていますが、「大小神社帳」では照日権現とされ、祭神は天津向津姫神となっています。天津向津姫神とは、瀬織津姫(セオリツヒメ)とも、「あまさかるひ (天下がる日) に向かつ姫」ともいわれる女神。天照大神の荒御霊といわれ、伊勢神宮にも祭られています。
そして瀬織津姫の「セオリツ」は、「背 下りつ」で、「アマテルの神が階段を下りてきて背をかがめて自らの寝所に導きいれた姫」という意味で、アマテル=日の神の妻、ということを意味します。ん?アマテラスは女神とされていますから女神同士ではつじつまが合わなくなります。
実は本来、日本でも記紀以前の時代は日の神は男性神であったとされています。その名前は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアマノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)。天火明命(アメノホアカリ)とも、古事記では邇芸速日命(ニギハヤヒ)、日本書紀では櫛玉饒速日命(クシタマニギヤハヒ)ともいわれ、大和の国を神武東征以前に何万年にも渡り(神話上ですが)治めていたとされる神です。この神はまた、三輪山の神、つまり大物主大神おおものぬしのおおかみ)中腹の磐座の大己貴神(おおなむちのかみ)の正体であるといわれています。何万年もその地を治めてきたのですから当然そうなりますよね。
記紀の施政者の編者たちが何よりも怖れ、その存在を覆い隠し、一方でその神威に頼っていた神がニギハヤヒだといわれています。このニギハヤヒの日の神としての神威を、施政者はアマテラスにすりかえます。
さらに、瀬織津姫の化身はウサギ。つまり、日の神の妻である瀬織津姫は本来は月の女神でした。中央政府の神話の書き換えにより、太陽神が女神となったので瀬織津姫もアマテラスに習合され、吸収されて「荒御霊」ということにされます。つまり月の神が日の神に入れ替えられます。ニギハヤヒは押し出される形で、ツクヨミノミコトとして祭り上げられ、「お前とはもう会わない」という宣告をされて影の存在に封印されてしまったのではないでしょうか。
うさぎの神社として有名な「つきのみや」の祭神もやっぱり…
さいたま市浦和区に社名を調(つき)神社、通称「つきのみや」と呼ばれる神社があります。この神社は、境内のあらゆるものがウサギづくしなことで有名。狛犬すらも「狛ウサギ」なのです。この神社、名前からして月神の神社なのですが、祭神は表向き天照大御神(あまてらすおおみかみ)豊宇気毘賣神(とようけひめのかみ)素盞嗚尊(すさのおのみこと)となっています。けれども、古い文献をたどると、神社要録(江戸天保期~明治初期)に
「祭神瀬織津姫命」
とあるのです。瀬織津姫命に天照大神をかぶせてあったのです。豊宇気毘賣神はタカミムスビ(壱岐・対馬の託宣を参照)であり、やはりニギハヤヒの仮の姿。素盞嗚尊はニギハヤヒの本当の父と言われています。上にかぶされた神の名をはがすと、元の神の名が現れる、そんな「書き換え」は多く起こります。明治初期は大きな神社祭神の書き換えの時代でした。
神の書き換えという「ドッキリテクスチャー」は、今も昔も行なわれてきた
時の施政者・権力者による都合の悪い歴史の改ざんや、又民衆の信望や信仰を集める神や指導者が、意図的に隠蔽されたり抹殺されたりすることはよくあることです。西洋化を推し進めるために明治政府による国家神道を国の支柱にするという目的のもと、アマテラス=伊勢神宮神格化と、神仏分離が行なわれました。
そうした施政者による祭神の書き換えは、いつの時代も行なわれてきました。
記紀が編纂された時代、時は壬申の乱の直後。女帝持統天皇とその後見である藤原不比等は、はじめて編まれる正式の国史である日本書紀と、より簡易に施政者一族にとって都合がよく心地のいい読み物としての古事記とにより、持統天皇の権威を確固としたものにしようと考えました。女帝持統天皇の姿を最高神アマテラスに託したのです。現代に生きる私たちにとっても、魏志倭人伝の中の卑弥呼の記述とあいまって、天照大神という女神が天皇の祖神として古くから信仰されてきた、とつい思いがちです。けれども、それが何度かに渡る書き換えによるものであることは、日本書紀の天照大神の呼び名の混乱でも明白です。イザナキ・イザナミが生んだ日の神は「大日霎貴(おおひるめのむち)」と呼ばれていたのでした。異伝の中に出てきた「天照大神」という名が、それにいつともなく文脈の中ですりかえられていました。
「神無月には全国の神様が島根(出雲)に集うので、出雲では神有月なんだよ」なんていうよく聞くトリビアも、何となく流されていますが、では何で十一月に神様が出雲に集まるの? という基本的な疑問はあまりもたれないようです。実はこれにもニギハヤヒが関係していて…というような話は、「牽牛織女」、かぐや姫の読み解きとともにまたの機会に。
私たちが当たり前のように昔から変わらず引き継がれていると思っている神社の伝統も、実はけっこう新しいものだったりします。また。「根の国」と「黄泉」とはちがうものだということも、記紀を読むだけでもわかったりもします。身近な古い寂れた社や祠。そこには、古い時代からの素朴な信仰と、なまなましい時代の傷跡とがともに隠されています。
地層のように埋もれた古代の痕跡を辿るのは迷路を辿るようにもどかしく楽しいもの。ここまで書いたことも、全てが事実なのかどうかは結局分かりません。
秋の夜長、名月をめでながらツクヨミノミコトの正体をあれこれと空想してみるのも楽しいのではないでしょうか。