内澤旬子の本はたいへんおしゃべりである。
ジャンルとしては身辺の記録とでも言ってよいのか。『身体のいいなり』『捨てる女』、そして数年ぶりの新刊である本書『漂うままに島に着き』が上梓された。
私としてはこれに『飼い喰い――三匹の豚とわたし』も入れたいところだが、それはさておき。
どの本も著者自身の身辺の記録がとめどなく続く。どの本も目次をみると整然としているかに見えるが、さにあらず。関心やこだわりが横道に、回り道にそれたりする。そして関心の分量が決して均一ではないし、理に落ちない。おしゃべりの息継ぎのあとに、すっと違う場面にとんだり、まるで彼女の呼吸そのものにこちらは身をゆだね、目の前でおはなしを聞かされているような気がしてくる。ありていに言えば乗せられてしまうのだ。
いつのまにか、フンフンそれで、つらかったね、そりゃ笑えるよ、泣きなさい思い切り、などと相づちをうちながら読んでいる。ときどき吹き出し「こいつ、ほんとにわかってんのか?」と本人似顔絵まで浮かんできてしまう。可笑しい。
内澤旬子の本は得てして細部が面白い。
例えば乳癌の治療をきっかけに書かれた『身体のいいなり』のなかで、思わずホーッと声に出したのは、病院へお見舞いに来た母上がカツをあげてお手製カツサンドを持って来るくだり、とか。乳房全摘したことで、話しやすい相手はゲイの友達なのだ、とか。なるほど、なるほど。医者とのやり取りや同室の癌患者との線のひきかたとか、細部のおしゃべりが特におもしろいのが『身体のいいなり』だった。
三匹の豚を飼い喰いしたあとに、何もかも捨てたいという欲求に従い、マンションから、道具類から、さらに仕事でたまりにたまったイラスト原画や大量の蒐集本を処分することになる『捨てる女』。
イラストと蔵書は捨てる前に展示させてほしいとあわてて申し出た私が、当時運営していた15坪ほどのスペースで展示即売会を開催したので忘れ難い。
来てくださった方達は、内澤旬子の仕事の多さすごさに圧倒されたのではなかったろうか。
著作で知る彼女とは別の、いわば手の仕事の巧みさも饒舌であったのだ。
なにもかも捨てたついでに東京も捨てたかったのか、今となっては何故、小豆島へ来たのだったか、著者も『漂うままに島に着き』としか言いようのないことだったのかもしれない。
本書には移住前、そして移住してからの暮らしぶりが余すところなく書かれている。いままでのようにあくなき好奇心のまま島の諸事情、暮らし方が、時系列で追体験できる。
彼女が移住して来る数カ月前に、私も小豆島に移住していたのだが、その日暮らしに追いまくられて、こんなにこまかに島を観察できていなかった。本書を読んでより詳しく島が見えてくる。有り難い。
島暮らしは当然のことながら船がたより、どこから来るにも行くにも船に乗らなければたどりつけない。
島にはすぐに手に入るものが少ない。映画館はない。飲食店も、コンビニすら少ない。
それを不便と感じるか面白いと思うかで、地方で生活していけるのかが分かれると思う。
内澤旬子はこれを面白いと思ったのだと思う。
なにもないけど、やろうと思えばなんでもできるかもしれない。それが島だ。
さらに、眠っていたであろう、身体を使うこと、大工仕事や山歩きや猪を射止めて捌くことや、気のおけない仲間と作業を分かち合うことや、近隣の人たちに見守られている安心感に触れ、やぎを飼い、やぎに導かれて草木に触れ、人様にいただく畑や海から得られるもので、そこそこおいしいものを作り、食べる楽しみも得たのではないだろうか。
内澤旬子のどの本にも可笑しさはあふれているが、そこはかとない哀愁もまたただよっている。哀愁という言葉でしか表せないのだが、諦観と森羅万象にたいする慈しみがベースとして流れているとでもいうか……。
『漂うままに島に着き』は、年月の経過か、島へ来てからの変化ゆえかは定かではないが、そこここに哀愁が濃いなぁ、と読み進めるうちに気づく。
あとがきまでたどりつくと、夜霧も降ってきそうで、そっと赤いハンケチなど手にしてしまった。