往々にして人は、自分の持っていないものについて、あれがあったら幸福だったかもしれない、あれさえあればこんな思いはしなかったかもしれない、と思うものですが、自分の持っているものについては、これがあったおかげで今幸福だとか、これがなければ私はこんな風に生きられなかっただとか、そんな殊勝なことをいちいち思うのは稀です。かつては温かい実家、のようなものに恵まれ、そして今失った私が言えるのは、実家なんてものはあったらあったでそうとうな足枷(かせ)になる場合も多く、自由の妨げになるものだということです。
身軽で自由な自分の足元を愛してみる
今、母が生きていたら、私は少なくとも自分の居場所がしっかりある実家を持っていたかもしれないけれど、今年の正月はいっそシンガポールにでも行こうかな、と思う自由はなかったかもしれません。少なくとも若い頃は「今年の正月は実家に帰らない」と言えば何かしら嫌味っぽいメールが来たり、じゃあその代わりに年末の掃除を手伝いに来いと言われたりしていました。そして実家を失うことで得た自由は、それはそれでなかなか得がたい、尊いものだと思うのです。
温かい実家を持つ人たちと比べて自分の持たないものを数えるよりも、彼らの足についた枷に対して、とても身軽で自由な自分の足元を愛するほうが気分は明るくなりそうです。そしてどうせなら、実家というある意味ではとても面倒な縁を持たない自由を、思いきり満喫するのはどうですか。いい歳して大晦日にクラブ巡りをして踊り狂うとか、ホストのカウントダウン営業に行ってそのまま誰かと初詣に行くとか、今年のような長い休みが狙える時は普段行きづらい地球の裏側まで行ってみるとか。そんなあなたを見て、温かい実家という枷を持つ友人たちは、自分らの持たないその自由をうらやむかもしれません。