あちこちから火の手が上がり、猛煙が立ちのぼる神戸市長田区の市街地。斎藤知事は、祖父がこの街でケミカルシューズの工場を営み、被災したことを震災経験として語る=1995年1月17日、朝日新聞社ヘリコプターから
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 1995年1月17日5時46分。神戸・阪神地域と淡路島北部をマグニチュード7.3の大地震が襲った。復興に尽力した当時の貝原俊民兵庫県知事と現在の斎藤元彦知事──。災害と知事のありかたについて、当時地元紙記者として現場を取材したノンフィクションライターが書く。AERA 2025年1月20日号より。

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 阪神・淡路大震災の発生から12日後の1995年1月29日。死者数が増え続ける中、開かれた臨時県議会で当時の貝原俊民・兵庫県知事は犠牲者への責任を問われ、こう答弁した。

「知事は県民の命について無過失無限大の責任を持たなければならないと考えている。私の命を投げ出すことによって5千余名の亡くなられた方々の命がよみがえるならば、その決意も辞さないほどの責任を感じている。それもかなわないのなら、次世代の県民のため、すばらしい防災都市の建設に死力を尽くすことが私のとるべき道であろうと決意を新たにしている」

貝原俊民の決意と斎藤元彦の再選

 貝原はその心構えを沖縄県最後の官選知事、島田叡から学んだという。神戸出身の内務官僚だった島田は太平洋戦争の末期、米軍の沖縄上陸が迫る中で赴任し、最後まで県民と行動を共にした。自分もそうありたい、と。

 そして震災から6年余りを経た2001年5月22日、貝原は4期目途中で辞意を表明する。

「知事の責任は県民の命に対してはもちろん、県土の一木一草にまで及ぶ。6400人の犠牲を出した震災時の知事として、身の処し方を自問自答してきた。復興の道筋を付ければ辞任するのが、震災当初からの決意だった」

 当時、地元紙の県政担当記者だった私は、県庁4階にある記者会見室で、貝原の決断を感慨深く聞いたことを覚えている。そして、今も同じ部屋で開かれる斎藤元彦知事の記者会見に通いながら、その言葉を時折思い起こす。

 知事の責任は県土の一木一草にまで及ぶ──。

 島田知事を単純に英雄視することに、沖縄では疑問や批判があることは知っている。貝原の唐突な辞任は、副知事だった井戸敏三へ後任を引き継ぐ政治戦略でもあり、辞任理由を額面通り受け取れないこともわかっている。

 だが、それでも知事職を担う公人としての使命感、県政トップの政治的責任を最大限に果たそうとする強烈な責任感が、この言葉には込められていると思う。

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震災の経験が兵庫を「防災先進県」に