熱量のない言葉で被災地は背負えない

 実は、かつての貝原の言葉を斎藤も県議会で引用したことがある。知事就任から半年、2022年2月のことだ。

「百余年前、賀川豊彦は、一人は万人のために、万人は一人のためにと、日本初の生活協同組合を兵庫で立ち上げました。また、太平洋戦争末期の沖縄戦で県民と苦難をともにした本県出身の島田叡沖縄県知事を引き合いに、貝原知事は、知事の責任は県土の一木一草にまで及ぶと使命感を示されました。

 兵庫に連綿と受け継がれるこうした心構えや責任感を私もしっかりと継承し、全ての県民が、安心して、育ち、学び、働き、遊び、幸せに生きられる環境をつくってまいります」

 今もその思いは変わらないか。昨年末の知事会見で私は尋ねた。

「貝原元知事の言葉である『県土の一木一草まで及ぶ』という言葉は大変重い言葉だと思っています。3年経って今回また改めて知事に就任しましたが、その思いに変わりなく頑張っていきたいと思っています」

 やはり印象は同じ。貝原の言葉の熱量とは比べ物にならないほど希薄だ。

 自らの責任を「一木一草まで」と本当に思うのなら、告発文書問題の中で亡くなった職員への思いをなぜ語らないのか。選挙中から今に至るまで続くデマや誹謗中傷、個人情報の流出をなぜ止めようとしないのか。自身に問題はなかったと、ひたすら正当化を繰り返すばかりではないか──。

 重ねてそう問うたが、答えはやはり虚しかった。言葉が交わらない。

 阪神・淡路大震災からの30年間、防災学者として復興のプロセスに立ち会ってきた室崎がこう語っていた。

「われわれ研究者同士も、住民と行政の関係においても、お互いの意見を遠慮せずぶつけ合い、論争する。そこから納得できる答えを見つけていく。そんな社会を目指した30年だったと思う。ただし、それはお互いを信頼し合い、自分の考えを正しく述べることが前提になる。デマや誹謗中傷が飛び交う社会を、われわれは目指してきたわけじゃない……」

 熱のない表層的な言葉しか持たない知事が、被災地に積み重ねられた人びとの思いを背負えるだろうか。(ノンフィクションライター・松本創)

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