その父が設計した自宅は、鉄筋コンクリート造りで約15坪。「機能的なものが一番美しい」との考え方から、装飾など不必要なものは徹頭徹尾、排した。象徴的なのが、家の中に扉は一切ない。トイレにもなく、大きな屋根で家全体を覆い、屋根をハブマイヤートラスという鉄の梁で支えている。

 屋内の真ん中に広いリビングスペース、端に台所とトイレが壁を隔ててあり、反対側が両親の寝室だった。防空壕跡を利用した地下室に姉の部屋があり、妹たちは両親と一緒に寝て、自分はリビングにあるベッド兼ソファで寝た。リビングには大きな机があり、一つは食卓、もう一つは父の仕事用。宿題は、食卓でやった。そうした合理性を尊ぶ点は、自分の『源流』にもなったかもしれない。

 台所とトイレの部分をリビングと区切るところに大きな壁があり、食卓が接していた。小さいころから誰かに「こうするものだ」と言われても、すぐには従わなかった。たまに、しびれを切らした父に「ちょっと壁のほうへ向かって座り、なぜ叱られたか、考えてごらん」と言われ、座らされたことがある。

 座っているうちに考えごとをして、なぜ叱られたかを忘れ、父も別なことをやっていてすっかり忘れて「ああ、まだ座っていたの。もう考えた?」と言って終わる。お叱りの儀式のようなものだった。これも自分の頭で考える訓練になったのかもしれない。

 自分の頭で考えるとは、まず問題をみつけることで、問題を与えられるのではなくみつけるのが楽しい。「それはどうしてか」と考えることも、楽しい。学問で言えば「仮説をつくる」ということで、仮説が本当かどうかを確かめるのが検証で、正しければそれに基づいて新しい理論をつくる。そういう面で、学生たちにも自分の頭で考えてほしいと、いつも言っていた。

「なぜ?」「なぜ?」問いかける自分に説明してくれた担任

 61年4月、大田区立池雪小学校へ入学。「なぜ、なぜ?」という生徒だった。4年生から卒業までの担任は男性の厳しい先生だったが、理屈をきちんと説明してくれた。最初は怒られたが、そのうちに理解して応援してくれて、そのおかげか積極的になり、放送部の委員になって昼の放送をやり、学級委員会の委員長などもやった。

 青山学院の中等部、高等部を経て、74年4月に慶應義塾大学経済学部へ進む。同級生の大半は青山学院大学へ進学したが、みんながそうするときに同じようにいくのに抵抗感があり、外部を受けてみた。

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